上武鉄道
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上武鉄道(じょうぶてつどう)は、埼玉県児玉郡神川町の丹荘駅と西武化学前駅の間を結ぶ鉄道路線(日丹線)を運営していた鉄道事業者である。1986年に鉄道路線を廃止したが、現在も群馬県倉賀野に本拠を置く通運会社として存続している。
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[編集] 路線データ
- 路線名称:日丹線
- 区間(営業キロ):丹荘~西武化学前(6.1km)
- 駅数:5(起点駅を含む。旅客営業廃止時)
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:なし(全線非電化)
[編集] 歴史
もとは、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に、日本ニッケル株式会社が群馬県多野郡にあった多野鉱山、ニッケル精錬所と神流川を隔てた埼玉県児玉郡にあった若泉製鋼所の専用鉄道として敷設した鉄道である。戦後、軍需物資の輸送に頼っていた鉄道の維持が困難になっていたことと、沿線自治体の要望により1947年(昭和22年)5月に地方鉄道に転換し、旅客営業を開始したもので、運営は日本ニッケル鉄道部(通称日本ニッケル鉄道と呼ばれた)が行った。1960年(昭和35年)に日本ニッケルの鉄鋼部が朝日化学肥料に譲渡され、西武化学工業(現・朝日工業)が発足したのにともない、日本ニッケルの一組織であった鉄道部が独立し、1962年(昭和37年)に上武鉄道となった。
1943年(昭和18年)11月には、軍需物資であるクロム鉱石などの輸送を目的として、終点付近から分岐して、若泉村渡瀬(わたるせ)にいたる2.3kmの延長計画が立てられたものの、資材の調達ができず、翌年断念された。戦後は、地方鉄道転換とともに延長を申請し、1946年9月に免許が下付されたが、今回も資金の目途が立たず、1966年に免許は失効した。
地方鉄道転換後は、途中に停留所(駅)が増設されたが、1日の利用客は10人を割り込む状況で、実態は専用鉄道同然であった。1972年(昭和47年)12月いっぱいで旅客営業を廃止し、貨物専業となったが、沿線住民からは特に反対はなかったという。その後、貨物輸送は積替えの必要のないトラック輸送に切り替わり、1986年12月に廃止された。
1980年代の上武鉄道では、国鉄で廃車となった大量の車両の解体が行なわれていた。貨車はいうに及ばず旅客車までが西武化学前駅に送り込まれ、次々と解体されていった。西武化学工業では、日本ニッケル時代からスクラップの再生製鉄を行なっており、そのノウハウを活かした副業が、国鉄末期の需要とマッチしたものであろう。
- 1941年(昭和16年)7月 - 専用鉄道敷設許可。
- 10月15日 - 敷設工事着工。
- 1942年(昭和17年)6月30日 - 日本ニッケルの専用鉄道として開通。
- 1946年(昭和21年)3月15日 - 地方鉄道転換申請。
- 9月25日 - 地方鉄道転換認可。
- 1947年(昭和22年)5月1日 - 地方鉄道に転換し、旅客営業開始。青柳駅、寄島駅、若泉駅(後の西武化学前駅)設置。
- 1962年(昭和37年)1月1日 - 上武鉄道に改称。
- 1966年(昭和41年) - 神川中学校前駅設置。
- 1973年(昭和48年)1月1日 - 旅客営業廃止。貨物専業鉄道となる。同時に神川中学校前駅、青柳駅、寄島駅廃止。
- 1986年(昭和61年)12月31日 - 全線廃止。
[編集] 運行形態
1963年のダイヤでは、定期列車4往復、不定期列車5往復が設定されていたが、実質的には定期列車4往復のみの運行であった。主に混合列車で運転され、貨車の後に木製の2軸客車1両を連結してディーゼル機関車が牽引する形態であった。終点の西武化学前駅では、直前で列車を停止して最後尾の客車に連結手が乗り込み、再発車後、客車は走行中に解放され、機関車と貨車が側線に入った後、タイミングを計ってポイントを切り替え、客車だけがホームに進入するという運転を行っていた。丹荘~西武化学前間の運転時分は24分である。
[編集] 駅一覧
(旅客営業廃止時)
丹荘駅 - 神川中学校前駅 - 青柳駅 - 寄島駅 - 西武化学前駅
丹荘駅には、数本の側線をはさんで専用の単式ホームがあり、国鉄線と線路が連絡していた。中間の停留場は、すべて1面1線の棒線駅で、ホームは客車1両分の長さしかなかった。終点の西武化学前駅は、西武化学工業若泉工場の敷地内にあり、自転車置き場や構内通路と一体となった旅客ホームがあった。同駅構内には車両基地があり、機関車や客車が留置されていた。
[編集] 接続路線
[編集] 車両
[編集] 蒸気機関車
上武鉄道に在籍した蒸気機関車は、専用鉄道としての開業時に飯山鉄道から譲り受けた両1(3)のみというのが通説であったが、3両とする説もある(3以外はA1と8)。いずれにしても3以外は、国鉄または西武鉄道からの借入れ車で占められていた。この他、1942年に国鉄から1165(1150形)または1070(1070形)のいずれかを短期間借入れた記録がある。
- 2,3(形式1)
- A1
- 1948年10月に西武鉄道から借入れられた、車軸配置0-4-0(B)形のタンク機関車で、戦時設計の統制会規格乙B25形である。1945年9月立山重工製(製番253)で、後に西武上水線となった日立航空機の専用線として開業した日興工業で使用されていたものである。1955年12月に西武鉄道に返却され、1957年に所沢工場でディーゼル機関車1(後にD22に改番)に改造され、1983年まで使用された。
- 4,5,6
- 西武鉄道から借入れられた、国鉄A8系の2-4-2(1B1)形タンク機関車で、4は1886年イギリスのナスミス・ウィルソン社製の鉄道院400形(403)で廃車後に西武鉄道の前身の一つである川越鉄道に払下げられたもの、5は同年同社製(製番493)6は1902年製(製番639)の同形機であるが、こちらは川越鉄道が自社発注したものである。最初に入線したのは5で、1959年7月から1961年12月まで使用され、4が入線すると同時に休車となった。4は1963年7月まで使用され、1962年5月に入線した6と交代したが、6の使用期間も1年余りと短く、3両とも1965年7月1日付けで廃車となった。3両とも西武鉄道に返却されたが、そのうちの4,5が西武鉄道の横瀬車両基地と保谷教習所にそれぞれ保存されている。
- 7
- 西武鉄道から借入れられた車軸配置2-6-0(1C)形のタンク機関車で、1897年アメリカのピッツバーグ社製(製番1711)である。もとは未開業に終わった伊賀鉄道が発注した3両のうちの1両で、阪鶴鉄道A5形(13)となった後、阪鶴鉄道の国有化により2850形(2851)となっていたもので、1923年に播州鉄道(後の播丹鉄道)に払下げられて同社の8となり、1943年6月に再国有化されたが、1945年に西武鉄道に譲渡されてしばらく8のままで使用された後、7に改番されたものである。上武鉄道への入線は1962年3月で、6月から使用が開始された。1964年にD101が入線するまで使用され、1965年11月1日付けで廃車となった。西武鉄道に返却され、保管の後、東京都品川区の東品川公園で保存されている。
- 8
- 西武鉄道から譲渡された、A8形を寸詰まりにしたような車軸配置2-4-2(1B1)形のタンク機関車で、1891年イギリスのダブス社製(製番2765)である。関西本線の前身の一つである大阪鉄道が輸入した2両のうちの1両(6)で、1900年の関西鉄道への合併にともなって駒月形(57)となり、1907年の国有化によって220形(220)となっていたものである。1917年6月に西武多摩川線の前身である多摩鉄道に譲渡されA1となり、西武鉄道への合併後の1944年に3に改番、1956年に貸渡しの後、1958年10月に譲渡された。8への改番はこの時に行なわれたものと推定されており、先に存在した3への敬意を払ったものである。1965年に廃車された後は西武鉄道に返還され、これも豊島区の東京交通短期大学交通資料館に保存されている。
- 1261(形式1260)
- B2015(形式B20)
- 1947年から約1年間、国鉄高崎機関区から借入れたもので、1947年3月に立山重工で新製されたわずか1ヶ月後に入線しており、当時の車両事情の逼迫具合が窺われる。1948年10月にA1が入線すると同時に返還された。
[編集] ディーゼル機関車
[編集] 気動車
[編集] 客車
[編集] 貨車
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 日本ニッケル鉄道―上武鉄道開業から終焉まで―(高井薫平 著、RM LIBRARY 41 ネコ・パブリッシング刊。ISBN 4-87366-323-7)
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