中国人民志願軍
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中国人民志願軍(ちゅうごくじんみんしがんぐん)は朝鮮戦争に参戦した人民解放軍部隊の名称。初代司令官は彭徳懐、初代政治委員は鄧華が担当した。人民義勇軍、抗米援朝義勇軍ともいう。
1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は当初、朝鮮人民軍が優勢であったが、米軍を主体とした国連軍の仁川上陸作戦により形勢は逆転し、国連軍は平壌を占領、一部部隊は鴨緑江の線に達した。このため、1949年に成立したばかりの中華人民共和国は参戦を決意するが、「朝鮮戦争を拡大しない」というソ連の方針により、参戦部隊は「人民志願軍」の名称にした。実際には人民解放軍の正規部隊である。当初前線に投入された部隊だけでも20万人、後方待機部隊を含めると100万人に達した。旧間島(現・吉林省延辺朝鮮族自治州)の朝鮮人部隊も多数含まれていた。
1950年10月25日、中国軍は山岳部を迂回し朝鮮北部の戦線に突如出現した。周囲の丘陵地帯を完全に包囲され奇襲された米韓軍は甚大な被害を受け、驚いて総退却を開始、中国人民志願軍は平壌を奪回したばかりでなく、韓国の首都ソウルも占領した。中国軍は、どれだけ倒されても後から後から途切れなく兵士を殺到させる人海戦術を行った。米軍は、途切れることのない中国軍の出現に、やがて弾薬が尽き、撤退せざるを得なかった。そして、前線でチャルメラや銅鑼を打ち鳴らして威嚇を行い、米兵に異様な恐怖を与えた。その後、戦線は北緯38度線を挟んで膠着状態となり、1953年7月27日板門店で停戦協定が調印された。停戦後も板門店の共同警備区域に駐屯していた人民義勇軍は1958年に撤退した。
西側では中国軍の損害を死傷や病死、凍死なども含め約100万人とする見方もあるが(ソ連の公式文章でも中国軍の戦死者は100万人、鄧小平は非公式の席で日本共産党党首に対し戦死者は40万人と言及、康生もエンベル・ホッジャに対して同様に発言。)、中国側の発表によれば志願軍の損害は戦死者は約15万2千人であった。この中には毛沢東の長男、毛岸英(平安南道で戦死)も含まれる。省別では四川省出身の戦死者が3万人で最高となっている。志願軍が最初に戦闘を行った10月25日は抗米援朝義勇軍記念日とされており、現在、中国では北朝鮮内の人民志願軍激戦地を訪問するツアーが盛んである。
[編集] 関連文献
- 葉雨蒙『黒雪 中国の朝鮮戦争参戦秘史』(同文舘、朱建栄・山崎一子訳)
原題『黒雪 出兵朝鮮紀実』(中国語)。朝鮮戦争への人民志願軍派兵に至る中国共産党指導部の討議、スターリンとの交渉、朝鮮北部戦場での凄惨な戦いをドキュメンタリー小説の体裁をとって描いている。
- 朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争』(岩波書店)
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