久留米城
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久留米城の航空写真 (1987年撮影・国土航空写真) |
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通称 |
篠原城、篠山城、雨城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
3重3階(非現存) |
築城主 |
不明 |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、堀 |
位置 |
久留米城(くるめじょう)は日本の城。所在地は福岡県久留米市篠山町。江戸時代に久留米藩有馬氏の居城であった。
目次 |
[編集] 概要
久留米城は久留米市街の西北に位置し、筑後川が西から南へと大きく蛇行し宝満川と合流する左岸地点にある。
筑後川を天然の堀とし、川沿いの丘陵の頭頂部を平坦にして本丸が築かれ、その外側に二の丸、三の丸、外郭が配された梯郭式の平山城である。 本丸には多聞櫓で連結された櫓が各隅に配され、特に南東隅の巽櫓は3重3階からなり弘前城、宇和島城、高知城などの天守よりも大きく、実質的に櫓というよりも寧ろ天守と言えるものであった。
明治時代に廃城となった後、建造物は解体され現在は高く普請された石垣と堀のみが往時を偲ばせている。本丸跡には有馬記念館と篠山神社がある。また、城の東には久留米大学、南にはブリヂストン久留米工場があり、本丸以外は市街地となっている。
[編集] 沿革
室町時代後期の永正年間(1504年 - 1521年)にこの地の土豪が篠原城と称した砦程度のものを築いたのが始まりと言われる。天文年間(1532年 - 1555年)には御井郡司の某が修築したとの記録がある。この時代は豊後国の大友宗麟と肥前国の龍造寺隆信が争っており、この地は双方の勢力が拮抗する場所で度々城主が入れ替わった。
天正15年(1587年)豊臣秀吉が九州を平定すると、毛利秀包が3万5千石で封じられ近世城郭への改築を行った。秀包は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍についたため戦後改易となった。
筑後国には田中吉政が32万5千石で封じられ柳川城を本城とし、久留米城を支城とし2男の吉信を城主とした。元和6年(1620年)吉政の子、忠政は嗣子無く没し田中氏は改易となった。
代わって元和7年(1621年)丹波国福知山城主有馬豊氏が21万石で封ぜられ、以後、明治維新まで有馬氏の居城となった。豊氏は田中氏が改修途中であった城を完成させた。寛永8年(1631年)筑前国福岡城主黒田長政の指導により筑前堀を完成させた。慶安2年(1649年)から4年掛かりで外郭部を構築し城下町を整備した。元禄4年(1691年)4代頼元の代になって漸く城郭が完成した。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、その後、城は解体された。明治10年(1877年)篠山神社が建造された。昭和58年(1983年)3月19日、城跡は福岡県文化財に指定された。