二月騒動
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二月騒動(にがつそうどう)は、鎌倉時代の1272年(文永9年)2月に起こった事件。
1266年(文永3年)にもたらされた蒙古(元)国書に対する返書や、異国警固を巡り紛糾する最中に起こった事件で、得宗家を中心に鎌倉幕府を主導する北条氏の内紛。幕府に対して謀反を企てていたとされる六波羅探題南方の北条時輔、北条一門の名越氏らが執権北条時宗の命により討伐された事件で、2月11日に鎌倉で名越時章・教時兄弟、同月15日には京都で時輔がそれぞれ誅殺された。
この事件の結果、得宗家への反抗勢力は無くなったが、事件処理に当たった外戚の安達泰盛の勢力が肥大化し、御内人の平頼綱らとの対立が深まったとも指摘されている。
[編集] 事件の経過
六波羅探題南方の北条時輔は執権時宗の庶兄で、1264年(文永元年)に時宗が連署に就任すると同時に、京都の朝廷を監視する幕府の出仕機関である六波羅探題南方として赴任した。南方の上位である北方は、先々代執権北条長時の弟で得宗支持の北条時茂であったが、1270年(文永7年)に死去、後任が赴任しない状態となっていた。
時輔は反鎌倉派と連帯して六波羅を主導していたとも言われ、蒙古国書への返書を巡り朝廷の動向が重要視されるようになると鎌倉は京都を警戒するようになっていたとも考えられており、1271年(文永8年)12月に長時の子北条義宗が北方として赴任し、六波羅評定衆の安達頼景が所領を没収されるなど、反鎌倉派の動きを封殺する措置が行われている。また、1272年(文永9年)2月には後嵯峨上皇死去に際して後嵯峨の皇子である前将軍の宗尊親王が出家している。これは、宗尊親王が反鎌倉勢力に擁立されることを警戒した措置であるとする指摘もある。
名越氏は、5代執権北条時頼時代(在職1246-56)に名越光時が将軍頼経と結び、弟の時章、教時らと共に謀叛を企てて処罰されており(宮騒動)、時章の子である公時もこれに同調したが、まもなく露見した。光時はかろうじて助命されて伊豆へ流され、時章、教時は責められずに終わった。評定衆の教時は将軍宗尊親王の側近でもあり、親王が追放された際には警戒されていたと言われる。
残されている御教書から、追討は幕命によるもので、幕府執権北条時宗、前執権で連署北条政村らが主導した事が分かっている。1272年2月11日、鎌倉では名越時章(入道見西)、教時の両名が誅殺され、公家の中御門実隆らが処罰された。この事件においては時章は無実で時章追討は誤殺であったと言われ、事件後、得宗被官の追手5名が処刑されている。また、教時追討に対する賞罰は行われていない。京都へは同年2月15日に早馬で幕命が伝えられ、時輔は北条義宗に誅殺される(逐電説も)。
[編集] 史料
- 『鎌倉遺文』
- 『保暦間記』
- 『五代帝王物語』