井伊直虎
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井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代の武将。遠江静岡県浜松市(旧引佐郡)引佐町井伊谷の国人。井伊氏当主。井伊谷城主。今川氏の家臣。井伊直盛の子。井伊直政の伯母で、れっきとした女性であるが、戦国武将として活躍した。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 天正10年8月26日(1582年9月12日) | |||
改名 | 祐圓尼 | |||
別名 | 次郎法師、女地頭 | |||
戒名 | 妙雲院殿月泉祐圓大姉 | |||
主君 | 今川氏→徳川氏 | |||
氏族 | 井伊氏 | |||
父母 | 井伊直盛、友椿尼 | |||
妻 | 未婚 | |||
子 | 直政 |
目次 |
[編集] 生涯
父直盛に男子がいなかったため、直盛の弟の直満の子、直親を養子に迎えるための許婚であり、次郎法師(次郎と法師は井伊家の2つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)と名付けられていた。
しかし、天文13年(1544年)に直満が(もう1人の弟の直義とともに)家老の小野道高(政直)の讒言により、今川義元に謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親が信濃に逃亡し、直親は小野道高の死の2年後の弘治元年(1555年)に復帰するまでに奥山親朝の娘を正室に迎えていたため、直虎は婚期すことになったとされる。
永禄3年(1560年)、父直盛は今川義元に付き従い、尾張へ出陣、先鋒の大将に任じられた。織田氏の各拠点奪取は、緒戦は有利に進められたものの、豪雨の影響と織田信長率いる本隊の強襲によって総大将今川義元を筆頭に多くの将兵が討ち取られるという敗戦に終わり、前線で戦っていた直盛も討死を遂げた(桶狭間の戦い)。
永禄5年(1562年)、直盛の戦死によって後を継いだのは、井伊直親であったが、今度は小野道好(小野道高の子)の讒言によって叛意を疑われ、弁明のため20騎ほどで駿府へ向かう途中に、今川氏真の命を受けた朝比奈泰朝によって掛川で斬首された。
永禄4年(1563年)、祖父の井伊直平が徳川氏の犬居城攻めに向かう途中、今川氏の引間城主の飯尾連竜の妻、お田鶴の方(椿姫)に毒茶を呑まされ死亡。井伊氏は徳川氏に従う。
永禄7年(1564年)、徳川氏に従い、引間城攻めで、重臣新野左馬助と中野越後守が討死。直親の息子、虎松(井伊直政)は龍潭寺の住職であった南渓瑞聞により鳳来寺に移された。(井伊家の没落)
永禄8年(1565年)、次郎法師は直虎と名を変えて当主となり、後の時代に「女地頭」と呼ばれる。
永禄11年(1568年)、小野道好に井伊谷城を横領される。同年、小野の専横に反旗を翻した井伊谷3人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)が徳川家康に加担。3人が招き入れた家康軍より取り戻される。引間城も落城し、夫の死後、城主となっていた田鶴の方は自害している。元亀元年(1570年)、徳川家康は、小野道好を、事実無根の直親を讒言した罪で処刑する。
元亀3年(1572年)秋、武田信玄が遠江に攻め込んでくる。信州から三州経由で南下してきた武田氏の武将、山県昌景に井伊谷城を明け渡し、井平城防衛戦で敗退後、浜松城に逃れる。同年12月22日、三方ヶ原において織田・徳川連合軍は敗北(三方ヶ原の戦い)。戦勝の武田軍は浜名湖北岸で越年し、三州八名郡へ転進。野田城を攻略するも、武田軍は撤退する。
天正3年(1575年)、井伊直政を3百石で徳川氏に出仕させる。 直政はすぐさま頭角を現し、外様でありながら徳川家臣団の筆頭となる。
[編集] 関連作品
[編集] 小説
女(おなご)にこそあれ次郎法師(梓澤要・著、新人物往来社、2006年01月発行)
[編集] 関連項目
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