佐世保重工業
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種類 | 株式会社 |
市場情報 | |
略称 | SSK、佐世保、佐世保重 |
本社所在地 | 東京都千代田区平河町2-3-24 |
設立 | 1946年10月1日 |
業種 | 輸送用機器 |
事業内容 | 船舶・橋梁 |
資本金 | 84億1,400万円 |
売上高 | 51,389百万円 (2006年3月期) |
外部リンク | http://www.ssk-sasebo.co.jp/ |
佐世保重工業(させぼじゅうこうぎょう)株式会社は長崎県佐世保市に主要拠点を置く重工業を生業とする企業で、登記上の本社は東京都千代田区。東京証券取引所第一部、大阪証券取引所第一部、福岡証券取引所に上場しており、筆頭株主は新日本製鐵。
通称はSSK。設立当初の社名である佐世保船舶工業の頭文字である。
目次 |
[編集] 概要
主力工場は立神町一帯に広がる造船工場で、鉄鋼部門は郊外の白岳地区に置いている[1]。
1946年に旧日本海軍の佐世保海軍工廠の土地や設備を受け継ぐ形で設立された。主な業種は船舶、艦艇の建造および改造、修理。佐世保市に基地を持つ海上自衛隊やアメリカ海軍の艦艇の保守、修理なども手がける。その他には橋梁、製鉄機器製造、製鋼付帯設備製造、プレス加工などを行っている。
敷地内の設備のうち、第4岸壁(通称:立神岸壁)にある250トンクレーンは1913年にイギリスから導入されたもので現在も使用されている。このクレーンはかつては戦艦武蔵の艤装工事にも使用された。第4ドックは大和・武蔵の整備のために極秘裏に開削した海軍工廠第7ドックのことだが、大和も武蔵も入渠する機会がないまま戦没した。このドックが活かされたのは終戦直後が最初で、航空母艦隼鷹・伊吹・笠置の3隻をすべて収納した上で解体した。さらに下って1962年、出光興産から受注した13万トンタンカー「日章丸3世」の建造に用いられた[2]。なお、第2ドックは米海軍および海上自衛隊の共同使用施設として提供されており、SSKが独自に商業的に使用する事はできない。 また、海軍工廠時代のレンガ造りの建造物が数多く現存しており、現在も工場の施設として使用されている。
ベンチャー企業の西日本流体技研は同社よりスピンアウトした技術者集団であり、城下町「佐世保」よりたった7名で独立した彼等の冒険は小説にもなった。
[編集] 来島どっくグループによる再建
オイルショックになると、大型船の受注が途絶えてしまいSSKの経営は破綻寸前まで追い詰められた。このため当時の辻一三・佐世保市長は国に救済策を要求、福田赳夫首相・永野重雄日商会頭やメーンバンクの日本興業銀行[3]池浦喜三郎頭取の要請で坪内寿夫が率いる来島どっくグループに経営再建を委ねた。
徹底したコスト管理や課制の廃止・ボーナス凍結など坪内の経営再建策は労働現場の波紋を呼び、労使協調路線を取っていた労働組合ですら不当労働行為を訴えるまで反発した。更に来島どっくグループ入りの経緯や1978年~1982年に実施した原子力船むつの原子炉の遮へい改修工事[4]など時として政治的な工作を弄するなど、政業癒着として批判されることも多く、桜田武は「一企業を政治的な工作で再建するなど発展途上国の政商のすること」とまで言い切った。
一方でSSKの来島グループ入り前後の模様を描いた「太陽を、つかむ男」(角川書店、後に「小説 会社再建」と改題され集英社文庫に収録)を著した高杉良が指摘する様に、
- 来島グループによる救済が行われなかった場合、佐世保重工業は手形の決済資金を調達できず、間違いなく倒産していた
- 来島グループ入り以前は労働組合が管理職の人事にまで介入するなど、会社側と労働組合の関係は労使協調というレベルを大きく超えて癒着といえる域に達しており、坪内は関係を正常なものに戻そうとしていたに過ぎない
- リストラや給与カット・ボーナス凍結の一方で、坪内は個人で従業員向けの低利融資を行うなど(当初は無利子融資も検討していたが、税務処理上贈与とみなされる可能性があることから、最終的に低利融資となった)、それなりの生活支援策も用意していた
という一面もあり、坪内を一方的に批判することはできないという意見も多い。何はともあれ、一企業に支えられた地域経済の脆弱性が露となった事件であった。
その後1984年には復配を果たすなど、来島グループ傘下で経営再建を果たしたSSKだったが、1986年からの円高不況で来島どっくグループ本体も経営不振に陥り、SSKは同グループを離脱した。
[編集] 助成金不正受給事件
2002年3月、下請業者から起こされた民事訴訟の過程で、SSKが下請業者から出向者を受け入れたように見せかけて国の「中高年労働移動支援特別助成金」を不正に受給していたとの疑惑が浮上。当時の姫野有文社長はすぐに疑惑を全面否定したが、新たな疑惑が次々と報道されたため、否定会見から10日後の3月12日に一転して「会社ぐるみの不正だった」と認めた。4月には経営陣が一新された。
その後もSSKが様々な補助金を不正受給していた疑惑が浮上し、長崎県警も強制捜査に着手。6月、訓練給付金をだまし取ったとして姫野前社長ら7人が詐欺容疑で逮捕された。一審では、姫野前社長らが99~00年度に512人分、計約3億7700万円を不正に受給したと認定され、有罪判決を受けた。
一方、疑惑の発端となった中高年労働移動支援特別助成金の不正受給問題では、手続き上、給付申請したのが下請け業者であったため、被害者にあたる独立行政法人雇用・能力開発機構は2005年2月、下請け11社に総額約6億7000円の返還を求めて提訴した。下請け業者側は「姫野前社長の指示にやむなく従っただけ」としてSSKに補償を求めているが、2006年末段階で問題は解決していない。
[編集] 註
- ^ 第一次オイルショック直前までは、米軍と自衛隊が管理する崎辺地区を返還のうえ大ドックを増設する計画があったが頓挫した
- ^ 同じく出光が石川島播磨重工業に発注した「出光丸」が就役するまで、日章丸3世は世界最大のタンカーとして勇名を馳せた
- ^ SSKの取引銀行は長らくの間、旧興銀(現・みずほコーポ銀)を主力、旧長銀(現・新生銀)・旧日債銀(現・あおぞら銀)・親和銀(旧)を準主力としていたが、現在は三菱UFJ銀(←旧UFJ銀行←旧三和銀行)を主力行とし、現在に至っている
- ^ この工事では坪内と辻市長が議会の同意を得ないままむつのドック入りを強行したことで、大規模な反対運動を引き起こした。ただし「小説 会社再建」によれば、むつの改修工事受け入れは坪内の社長就任以前から事実上決まっていたとされる。