光源氏
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光源氏(ひかるげんじ)は、紫式部の物語『源氏物語』の主人公である。『源氏物語』中第一帖「桐壺」から第四十帖「幻」まで登場する。
架空の人物であるが、嵯峨源氏の正一位大納言、河原左大臣の源融(みなもと・の・とおる)をモデルにしたとする説が有力である。古くは他にも醍醐源氏の左大臣源高明や光孝天皇、藤原道長など多くの人々の名前が挙げられてきた。
桐壺帝の第二皇子。母は桐壺更衣。幼少の頃から輝かんばかりの美貌と才能に恵まれ、「光る君(ひかるきみ)」と綽名される。母は三歳のとき亡くなった。母の面影を求め、生涯様々な女性と関係を持つ。父桐壺帝は光る君を東宮(皇太子)とすることを考えたが、実家の後援がないことを危ぶみ、また光る君が帝位につけば国は乱れると高麗人に予言されたこともあり、臣籍降下させ源氏の姓を賜った。また、高麗人の予言によれば「3人の子供をなし、ひとりは帝(後の冷泉帝)、ひとりは中宮(のちの明石の中宮)、真ん中の劣った者(夕霧)も太政大臣となる」といわれている(この予言から、女三宮が身篭った時点で、それは実子でないことに気づいていたとも思われる)。
亡母に似ているとして父帝の後宮に入った藤壺女御を慕い、遂に一線を越えて子(後の冷泉帝)をなすが、密通の事実は世に知られることはなかった。後にこの皇子が即位した後、臣下として最高位の准太上天皇を与えられた。このときの住居を取って六条院と呼ばれる。
正妻は最初元服のときに結婚した左大臣の娘葵の上、後に兄朱雀院の皇女女三宮である。しかし源氏が理想の女性として育てた紫の上(若紫、紫の君とも呼ばれる)が葵の上の死後実際正妻であり、紫の上への愛が最も深かった。女三宮を娶った理由は、ほかの妻たちがみな中流階級、あるいは上流の出身でも実家の後援を受けていないことを朱雀院が心配したためである。他、源氏の愛人としては、六条御息所、空蝉、夕顔、末摘花、花散里、明石の御方などが登場する。
子供は冷泉帝の他、葵の上との間に生まれた長男の夕霧、明石の御方の娘である明石の姫君の三人である。公的には女三宮の生んだ薫も源氏の子とされている。
兄の朱雀帝即位後、その外戚である右大臣派の圧力や女御候補であった朧月夜との醜聞もあって須磨、後に明石へ隠退。この時、明石の御方と結ばれ、後の中宮となる姫君が誕生する。帰京後は即位した冷泉帝の後見として栄華を極め、六条御息所の遺児秋好中宮を冷泉帝の中宮として自身はその後見となった。また六条御息所の旧邸を改装し、広大な邸宅六条院を造営した。源氏は六条院の正殿に紫の上と住み、明石の姫君を育てた。他の建物にはかつての愛人を引き取って世話をした。
藤壺への思いがおさえがたく、その姪である女三宮の降嫁を兄朱雀帝から打診されたとき、断る事が出来なかった。ただ幼いだけの女三宮に源氏は失望したが、やがて自身がかつて父を裏切ったように、女三宮の密通が発覚する。一度は女三宮とその愛人である柏木に怒りをつのらせた源氏であったが、生まれた子どもをみて、これが若い日の報いであったことに気づかされる(因果応報)。亡き父帝も源氏の過ちを悟っていながら咎めなかったのではないかと思いを馳せ、生まれた子の秘密を誰にもいわず自分の子として育てる事になる。
紫の上死去後、嵯峨に隠退して出家生活を送った後、死去した。
現世の繁栄を享受しながら常に仏道を思い、にもかかわらず女性遍歴を繰り返すという人物造形は、次の世代の薫と匂宮にそれぞれ分割して受け継がれる。また、しばらく後に書かれた『狭衣物語』の主人公である狭衣大将にも影響を与えている。