対馬丸
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対馬丸(つしままる)は、太平洋戦争中に存在した、日本郵船船籍の積載重量6754トンの船。1914年、イギリスで建造。
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[編集] 「対馬丸事件」概要
1944年8月22日、戦闘準備中の沖縄県より疎開のため一般・学童合わせて1788名(対馬丸資料館調べ)を載せ長崎へ向けて航海中、鹿児島県トカラ列島悪石島沖でアメリカ海軍ガトー級潜水艦「ボーフィン」(USS Bowfin (SS-287)(en)から発射された2発の魚雷を受け沈没。乗員乗客合わせ1418名(資料館発表、氏名判明者のみ)が死亡した。日本版タイタニック号(ルシタニア号)事件とも称される。
[編集] 疎開した理由
同年にサイパン島が玉砕陥落したことにより、米軍は同島から爆撃機B-29を出撃させることで、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるようになった。 これを受けて、日本軍軍部より沖縄県知事に宛て本土決戦に備え、軍事活動の妨げとなると考えられた老人や婦女・児童計10万人を本土または台湾への疎開させよとの命令が通達され、これにより疎開活動に当たっていた船団の1隻であった。
[編集] 任務に就いた船舶
対馬丸を含む船団は他に和浦丸・暁空丸が居たが本船は他2隻よりも大きな船で、おまけに一番古く大正時代に竣工した老朽船のため、性能は他の船に比べかなり落ち、全速でも13ノットしか出なかった。護衛艦も駆逐艦蓮や砲艦宇治による小規模な艦隊に過ぎなかった。疎開に当たり、児童の親などからは軍艦を要請する声もあったが、日本海軍には既にこれに当てる戦力余裕など無く、民間船舶に頼らざるを得なかった。
[編集] 台風襲来の中、出航
1944年8月20日、台風による激しい風雨の中5隻は長崎へ向け出航した。乗客の多くは上り下りが出来る階段一つと緊急の縄梯子があるだけの船倉に割り当てられた。また配られた救命胴衣も子供には大きすぎたことなども犠牲者の数を大きくした原因となった。大城氏の説によると、対馬丸には那覇市・首里市(現:那覇市)、暁空・和浦丸には豊見城村(現:豊見城市)を中心とする本島北部・南部の民間人が乗船していた。アメリカ海軍は、暗号解読などにより、船団の予定航路を把握していた。
[編集] 撃沈
8月22日。船足が遅いため、船団から遅れて一隻のみで航海していた対馬丸は、ジグザグコースをとって魚雷をかわした後に船団に追いつくか、危険だがそのまま直進するかで意見が分かれていたが、結局後者の針路をとり、学童には救命胴衣をつけさせ万が一に備えることとした。
22日午後10時、潜水艦ボーフィンは対馬丸に対して雷撃を行った。1発目はしのいだが、2発目と3発目が続けざまに右舷に命中した。魚雷命中による夥しい海水の注入で、縄梯子は流され、階段へいち早く登った者や暑さに耐えかね甲板に上がっていた者は船倉からは脱出できた。だがその階段もすぐに海水につかり使えなくなった。また脱出した者も、舷側が高く恐怖から海に飛び降りることができなかった人が大勢いた。胴衣をうまく使いこなせず溺れた人もいた。魚雷命中から11分後、対馬丸は大爆発を起こし沈没。船の爆風で救命ボートが転覆し、生存者は台風襲来の中筏で漂流しながら救出を待つことになった。風雨。三角波。サメ。眠気。真水への渇望。錯覚。漂流はこれらとの戦いでもあった。 生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、嵐がやんでから軍から連絡を受けた奄美大島や鹿児島県揖宿郡山川町(現:指宿市山川町)などの漁船に救出された。一番長い人は10日間の漂流を強いられた。
犠牲者の亡骸の多くは奄美大島・大島郡宇検村などに流れ着いた。現地には慰霊碑が建立されている。
他の船は爆雷を投下しながら全速力でボーフィンの攻撃を撒いた。船団全滅[1]を恐れたためか、漂流者救出を断念し、その場を去った。数日後、船団は目的地・長崎港に着いた。
[編集] 終戦まで
対馬丸が撃沈されたことは、緘口令が布かれたが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなった。このため一時は疎開に対する反発などがあったが1944年10月10日の那覇市への空襲があってからは疎開者が相次いだ。
沖縄からの疎開船178隻中、アメリカ海軍潜水艦の犠牲になったのは対馬丸のみであるが、目的は別として、実際は湖南丸(大阪商船船籍。1943年12月21日沈没、乗客の多くが少年兵志願者。乗客・乗員死者684名、生存者5人)、大阪(神戸)~沖縄間の定期旅客船だった嘉義丸(1943年5月26日沈没。大阪商船船籍・乗客500人、死者321名)など沖縄・奄美近海に眠る船は27隻ある。また生き残った暁空丸もこの任務により1945年撃沈された。和浦丸もまた同年7月20日、釜山港で機雷に抵触、使い物にならなくなりスクラップとなった。 疎開した民間人の多くは疎開先の本土(主に九州、鹿児島県や熊本県・宮崎県)や台湾で終戦を迎えた。
対馬丸を撃沈したガトー級潜水艦ボーフィンは現在「真珠湾攻撃の復讐者」として戦艦「アリゾナ」の上にあるハワイの資料館に展示されている。
[編集] 戦後
- 1950年10月、遺族会が発足、直ちに占領下の沖縄で、対馬丸の惨劇を伝え始めた。
- 1953年波之上護国寺に慰霊碑「小桜之塔」が建立される。
- 1987年参議院にて喜屋武眞榮から内閣へ質問主意書が提出され、初めて論議になる。以前(1975年他)からも質問主意書は喜屋武から時折提出されていた。
- 1997年12月12日にようやく沈没した対馬丸の船影が発見された。遺族会は国会に引き揚げを要求するが政府はこれを拒否[2]、代替案として「資料館」の建設が決定した。
- 1982年、直木賞作家大城立裕原作の記録書籍が理論社より出版、それを元にした75分に及ぶアニメーション映画が株式会社シネマワークより発表された。毎年終戦の日にNHKで放映されている。
なお、樺太連絡船の対馬丸とは別の船である。
- ^ 後述する「湖南丸」の漂流者を救助した護衛船「柏丸」が米軍の攻撃を受けた際、積んでいた機雷が誘爆し、犠牲者の数を大幅に増やした事との関連を指摘する声もある
- ^ 政府が引き揚げを拒否した背景には船が巨大すぎること、また、船の眠る海域が、現在でも度々漁船が転覆する海の難所「七島灘(しちとうなだ)」であることが挙げられる
[編集] 出版物情報
- 『対馬丸』理論社の大長編シリーズ(1982年1月,大城立裕,理論社) ISBN 4652010311
- 『対馬丸 さようなら沖縄』アニメ絵本(1982年1月,大城立裕原作,理論社) ISBN 4652020112
- 『対馬丸 さようなら沖縄』ビデオアニメ(1982年,対馬丸製作委員会,シネマワーク)
[編集] 外部リンク
- 対馬丸記念館
- シネマワーク-「配給リスト」にアニメ『対馬丸』情報
- 近代化遺産ルネッサンス
- 学童疎開船対馬丸撃沈遭難事件