平維盛
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時代 | 平安時代末期 | |||
生誕 | 保元2年(1157年) | |||
死没 | 寿永3年3月28日(1184年5月10日) | |||
改名 | 維盛、浄円 | |||
別名 | 惟盛、権亮三位中将、紅梅少将、光源氏 | |||
戒名 | 千手院殿前三位中将義山貞公大居士 | |||
墓所 | 十津川五百瀬(旧南望山宝蔵寺)、 静岡県芝川町上稲子西ヶ谷戸、 紀伊半島に他多数 |
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官位 | 従五位下、美濃権守、従五位上、右近権少将、 丹波権介、正五位下、中宮権亮、従四位下、 伊予権介、従四位上、中宮権亮、正四位下、 右近権中将、従三位、伊予権守、解官 |
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氏族 | 桓武平氏維衡流 | |||
父母 | 父:平重盛、母:不詳 | |||
兄弟 | 維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実 | |||
妻 | 新大納言(藤原成親次女) | |||
子 | 高清、夜叉御前 |
平維盛(たいら の これもり、保元2年(1157年) - 寿永3年3月28日(1184年5月10日)?)は、平安時代末期の武将。
1176年(安元2年)後白河法皇50歳の祝賀で、烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して「青海波」を舞い、その美しさから桜梅少将と呼ばれる。また『建礼門院右京大夫集』によれば、その学識と端整な容姿から「光源氏の再来」と称されていたという。
1180年(治承4年)源頼朝の挙兵に際し、追討大将軍となるが、富士川の戦いで水鳥の羽音に驚き敵軍の来襲と誤り敗走(ただし、羽音によって源氏方の武田軍の夜襲を察知して一時撤退を計ろうとしたところ、不意の命令に混乱して壊走したという説もある)。祖父・清盛の怒りを買う。
1181年尾張国墨俣川に平重衡、忠度と共に源行家を破り、従二位右中将・蔵人頭となり小松中将と呼ばれる。
平家都落ちにて西走。1184年(寿永3年)屋島の戦いで源氏と対陣中、密かに逃亡。後、高野山に入り、まもなく那智の沖の山成島で入水自殺。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1167年(仁安2)2月7日、従五位下に叙し、美濃権守に任官。
- 1169年(仁安4)1月5日、従五位上に昇叙。美濃権守如元。
- 1170年(嘉応2)12月30日、右近衛権少将に転任。美濃権守去る。
- 1171年(嘉応3)1月18日、丹波権介兼任。 4月7日、正五位下に昇叙。右近衛権少将・丹波権介如元。
- 1172年(承安2)2月10日、中宮権亮兼任。
- 1173年(承安3)3月9日、従四位下。右近衛権少将・中宮権亮如元。
- 1175年(安元2)1月30日、伊予権介兼任。 12月5日、従四位上に昇叙。右近衛権少将・中宮権亮・伊予権介如元
- 1178年(治承2)12月15日、春宮権亮兼任。中宮権亮止む。 12月28日、正四位下に昇叙。右近衛権少将・春宮権亮・伊予権介如元。
- 1180年(治承4)2月21日、春宮権亮止む。 4月27日、昇殿。
- 1181年(治承5)6月10日、蔵人頭に補任。右近衛権中将兼任。 12月4日、従三位に昇叙。右近衛権中将如元。
- 1182年(養和2)3月8日、伊予権介兼任。
- 1183年(寿永2)8月6日、解官