春風亭柳橋 (6代目)
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6代目春風亭 柳橋(しゅんぷうてい りゅうきょう、1899年10月15日 - 1979年5月16日)は、東京都文京区出身の江戸噺家。本名、渡辺金太郎。出囃子は『大阪せり』。
1909年、9歳の時4代目春風亭柳枝に入門し柳童で初高座。枝雀と改名後、1917年8月17歳の時6代目春風亭柏枝を襲名して真打昇進。1921年4代目春風亭小柳枝襲名。落語睦会に所属する人気落語家となり、8代目文楽・2代目小文治・3代目柳好と並ぶ「睦の四天王」と呼ばれ、全盛を誇った。1930年、柳家金語楼とともに日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を結成し、以降1974年までの44年間会長職を務める。戦後はNHKラジオ「とんち教室」のレギュラーで売れた。
得意ネタは「時そば」「碁どろ」「長屋の花見」「天災」「猫久」など3代目柳家小さん譲りの滑稽噺が多い。眉毛の長い大店の隠居のような風貌が印象的であった。芸名の如くほのぼのとした芸風で、的確な描写力に優れていた。また、「ごきげんよろしゅうございます。相変わらずのお笑いを一席申し上げますで。」・「・・・でな。」という独自の口調は、ラジオの寄席中継で全国の落語ファンに親しまれた。
戦前には、新作派の金語楼に影響を受け、古典を時代に合わせて改作した「支那そば屋」「掛取り早慶戦」などを手がけた。従来の古典においても、「湯屋番」で若旦那が妄想のあまり番台から落ちる場面で、座布団から転がり落ちるなどの派手な演出を試み、斬新な落語を創造する名手と評された。6代目三遊亭圓生は、どこまで上手くなるのか空恐ろしくなり、本気で弟子になろうかと思ったと述懐している。首相の吉田茂などが贔屓客で柳橋はよく屋敷に呼ばれて一席うかがったという。
戦後は芸が伸び悩み、当時の落語研究会の高座で、圓生が「妾馬」で好評だったのに対して、柳橋は散散な出来で圓生は自信をつけたというエピソードがある。常に陽の当る道を歩んできただけに守りに入ると育ちのよさがマイナスになった。その圓生や8代目文楽や5代目志ん生が昭和の名人として脚光を浴びる中、正当に評価されず不遇であった。寄席でも軽い噺や漫談ばかりなので、客から抗議されて高座で謝る姿がみじめで見ていられなかったと弟子が述べている。それでも、たまにホール落語でじっくりと得意ネタを演じ、その並み外れた力量を窺わせた。
普通、落語家の大家は「師匠」と呼称するが、金語楼と6代目柳橋だけは「先生」と呼称する事が多い。
なお、「柳橋」と名乗る落語家としては6代目だが、5代目までの亭号は「麗々亭」であったためか、この6代目を初代春風亭柳橋とする説もある。(ただし、春風亭柳枝は麗々亭柳橋 の弟子で、柳橋は初代柳枝の系統にいるので(初代柳枝→梅枝→3代柳枝→4代柳枝→柳橋 すべて春風亭)、別系統の名前を持ってきたわけではない。柳好も3代目までの亭号は麗々亭だった。)
1979年没。享年79。