東勝寺合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。1331年から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。東勝寺は、北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。
[編集] 背景
元弘元年(1331年)8月、後醍醐天皇が笠置山で挙兵、これに応じて楠木正成も河内で挙兵して、元弘の乱が始まる。幕府では鎮圧の兵を上らせ、上野国の御家人新田義貞も加わった。9月には笠置山が陥落し、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐へ配流とされた。
1333年、楠木勢は千早城で再挙し、幕府の大軍を相手に奮戦する。これに触発されて播磨では赤松則村(円心)が蜂起し、伊予でも反乱が起こる。幕府はさらに北条一族名越高家と下野国の有力御家人、足利高氏(足利尊氏)に大軍を率いさせて西国に派遣する。閏2月には後醍醐天皇が隠岐島を脱出して船上山に拠り、4月には足利高氏が篠村八幡において鎌倉に反旗。足利勢らは京都の六波羅探題を滅ぼし、都を制圧する。
5月、上野へ帰った新田義貞は生品明神において挙兵し、東山道を西進して鎌倉進撃を開始した。新田軍は一族や周辺豪族を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて武蔵国へ進む。鎌倉を脱出した高氏の嫡子である千寿王(足利義詮)と合流、鎌倉街道を進む。幕府側では北条泰家らを迎撃のために向かわせるが、入間川と久米川(東京都東村山市)での合戦で敗退し、分倍河原の戦い(東京都府中市)でも敗れた。新田軍は鎌倉へと迫った。
[編集] 経過
各地で敗走した鎌倉勢は、鎌倉の七切通しを封鎖。新田勢は関口を本拠に、小袋坂(巨福呂、こぶくろざか)、化粧坂(けわいざか)、極楽寺坂の三方から攻撃し、義貞はそれぞれ将を一族で固めた。小袋坂は山側で鎌倉勢の赤橋守時が守るのに対し新田勢の掘口貞満らが攻め、中央の化粧坂には金沢貞将に対し新田義貞が率いる主力が攻める。七里ヶ浜に面する海側の極楽寺坂は大仏貞直が守り、大館宗氏らが攻めた。戦いは膠着し、特に極楽寺坂では大館宗氏が戦死するほど苦戦する。
義貞は切通しの突破を諦めて稲村ガ崎からの鎌倉入りを試みる。室町時代に成立した古典『太平記』によれば、義貞が竜神に祈願すると潮が引き、新田勢は鎌倉に乱入。北条高時らは東勝寺において滅亡した。
東勝寺に篭った北条一族と家臣は、太平記によれば、長崎高重、摂津道準から順にそれぞれ腹を切り、最後に高時、安達時顕と自害したという。太平記には、自害した人々は283人の北条一族と家臣の870人とあるが、文学的誇張もあると考慮される。
[編集] 東勝寺合戦をめぐる伝承
現在の東勝寺の旧跡の北方には「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらが存在している。東勝寺旧跡での発掘調査では三つ鱗の入った瓦などが見つかるものの遺骨の発見はなく、新田勢や時宗の僧らによって遺体が処理されたと考えられている。腹切りやぐらは、その名称から東勝寺での戦死者と何らかの関係があるとされていて、今でも供養会では卒塔婆が立てられる。ただ高時の首塚を伝えるやぐらは、各所に存在する。
鎌倉でのこの戦闘の後、この地で死んだ北条一族を弔うため、足利尊氏によって宝戒寺が建てられた。宝戒寺の地は、もとの北条執権邸の地である。
鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷奥山頂部には、「宝戒寺二世普川国師入定窟」と伝える巨大なやぐらを中心に釈迦堂奥やぐら群と称する多数のやぐら群が存在した。やぐら群には多量の生焼けの人骨があった。昔から東勝寺での戦死者の遺体をこのやぐら群に葬ったとの伝承があった。昭和40年代の宅地開発の際にやぐらが破壊され、「元弘三年五月廿八日」の銘のある五輪塔の一部が発見された。まさに東勝寺合戦の初七日の供養をしめすものであり、伝承が事実であったことがわかった。やぐら群は昭和40年頃に宅地造成によって主要部が破壊されたが、一部は現存しているという。