東海銀行
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株式会社東海銀行(とうかいぎんこう 英語社名:The Tokai Bank, Ltd)は、かつて存在した日本の都市銀行。現在の三菱東京UFJ銀行の前身の一つ。統一金融機関コードは0011。
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[編集] 概要
東海銀行は、1941年に、愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行の3行が合併して設立された。中部圈に本店を置く唯一の都市銀行であり、中部圏財界の名門企業群の俗称である「五摂家」(他の4社は中部電力・東邦瓦斯・名古屋鉄道・松坂屋)の一員として主導的役割を果たしてきた。しかし、全般的には都銀中位行で推移し、またバブル期の首都圏進出も不良債権を築き上げただけであった。都銀各行がメガバンク再編に向かう中、結局、2002年1月、三和銀行と合併し、株式会社UFJ銀行となった。本店は、愛知県名古屋市中区錦3丁目21番24号にあった。
[編集] 歴史
[編集] 戦前-在名3行の合併
株式会社愛知銀行は、尾張徳川家に関係の深い豪商・素封家の発起により、1896年3月に第十一国立銀行(1877年4月設立)と第百三十四国立銀行(1878年11月設立)の2行が合併、両行の営業を引き継いで設立された。1914年から1918年の間に、関戸銀行・一宮銀行・東美銀行・大垣銀行・北方銀行・枇杷島銀行を合併している。
株式会社名古屋銀行は、1882年7月に名古屋区長吉田禄在の呼びかけで、有力実業家10入の発起により設立された。1907年からの10年間に、津島銀行・笠松銀行・金城銀行などを合併している。
株式会社伊藤銀行は、名古屋の富豪伊藤家の金融事業(個人経営の伊藤為替方)に端を発し、1881年6月、名古屋最初の私立銀行本店として設立され、いわゆる伊藤財閥の中核として機能した。1938年と1939年に中埜銀行・知多銀行を合併している。
上記3行は、中部圏の商工業の興隆、他銀行の買収・合併などによって着実に業容を拡大し、1940年末における愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行の預全量は、全国普通銀行292行中それぞれ第10位・12位・32位であった。
1941年6月、政府の「一県一行主義」の方針に従って上記の3行が合併し、資本金3760万円で株式会社東海銀行が設立された。当時の業容は、預金8億9300万円、貸出金4億0300万円、店舗数141カ店、従業員3468人であった。その後、東海銀行は銀行業整備の国策に基づいて、1945年に中央信託信託部門の営業を譲り受け、同時に愛知県内の岡崎銀行・稲沢銀行・大野銀行の地元銀行を相次いで合併し、県下唯一の本店銀行となった。設立後終戦までの同行は、中部圏の地場産業等に対する戦時統制の制約を受けながらも、預金、貸出を順調に拡大させた。
[編集] 戦後復興から伊勢湾台風
戦後の復興期においては、旺盛な産業資金需要を円滑に供給するという使命のもとに、預金の獲得に注力した。1949年6月には、同行独自の割増金付き定期預金であるミリオン定期預金を販売し、預金者の好評を得た。一方、融資面では、地元産業の復興・育成を強力に推進するとともに、東西の支店においても積極的な融資活動を行った。
また1949年11月には、外国為替管理法の制定に伴って甲種外国為替銀行の認可を受け、外為業務を拡大させた。1954年3月には、同行初の海外拠点としてニューヨーク駐在員事務所を開設した。
1959年9月に東海地方を襲い死者・行方不明4400人余り、総額約5000億円の被害を与えた伊勢湾台風は、同地域を地盤とする東海銀行にも店舗網等で大きな打撃を与えた。同行では、急減非常対策委員会を設置し、救援物資の供出など被災者の援助に努める一方、業務面でも、災害関係特別融資を実行するなど、中部経済圏の復興に奔走した。
[編集] 高度経済成長期
日本経済の高度経済成長期、東海銀行は融資構造を産業構造の変化に適応させるとともに、中小企業金融や個人取引の充実に努力した。個人取引に関しては、1961年に、ミリオンローンの取り扱い開始を皮切りに、耐久消費財関連のローン制度、住宅ローン制度の整備などを進めた。また顧客の多様な金融ニーズに応えるため、1968年株式会社ミリオン力ードサービス(現・三菱UFJニコス)、翌1969年セントラルリース株式会社(現・三菱UFJリース)など、相次いで関係会社を設立した。
海外部門では、1963年8月にロンドン支店、1965年3月にニューヨーク支店を開設したのをはじめ、1974年3月にはロサンゼルスに初の現地法人加州東海銀行を設立するなど、業務の拡充、海外拠点網の充実に努めた。
一方、事務面では、1970年2月のキヤッシュ・デイスペンサー(CD)の設置、翌1971年のオンラインシステムの導入など、顧客の利便性向上、事務合理化に努めた。また、1962年12月には、大蔵省の信託分離方針に従い、信託部門営業を中央信託銀行に譲渡した。
[編集] 石油危機からバブル経済
日本経済が2回の石油危機を経て安定成長期へ移行するなか、各銀行は多様化する金融ニーズヘの対応に注力していた。東海銀行でも、1982年4月には金の店頭販売、1983年4月には長期国債の販売、1984年6月には公共憤ディーリングなどを開始。法人部門では、1983年11月の東海パソコン情報サービスをはしめとするファーム・バンキングの充実、1988年2月初の法人取引店舗麹町支店の開設などを実施した。
個人部門では、1978年8月に東海カードローン、1984年12月にトヨタ生協とわが国初のバンクPOSの取り扱いなどを開始したが、利便性に欠けるところがあり普及には至らなかった。
海外部門では引き続き業務の多様化、支店・駐在員事務所の拡充に努め、また、1992年のEC統合をにらんで、1989年にロンドン・パリなど、ヨーロッパ5市場に株式を上場した。事務面では1988年9月に第3次オンラインシステム「TWINS21」をスタートさせた。
また、1991年6月に創立50周年という大きな節目を迎える中、これを気に業務関連事業と社会関連事業の2つの記念事業を展開した。業務関連事業では、本店と全営業店をリアルタイムで結ぶ銀行界初の衛星通信システムを導入,社会関連事業では、美術品の展示、文化遺産の保護、コンサート開催などを通じて、地域文化の発展に努めた。1975年5月に東海財団、1983年9月に東海銀行国際財団を設立するなど、早くから社会貢献活動を重視し、1992年6月には社会貢献活動推進室を設置するなど、その充実に努めた。
[編集] バブル崩壊から金融再編、そして消滅
バブル経済の崩壊は、首都圏にて積極的な営業展開を図っていた、東海銀行にも経営の転換を迫らせた。1991年10月には三和信用金庫と合併し、営業基盤強化を図る一方、1992年4月には第9次長期経営計画をスタートさせ、生き残りをかけた不良債権処理を進めていく。
しかし、その間、東海銀行秋葉原支店不正融資事件(1990年から1991年にかけ、東海銀行秋葉原支店職員が、富士銀行赤坂支店職員と共謀し、架空預金証書を捏造し、ノンバンクから1,500億円もの不正融資を展開した。職員は海外逃亡し、タイ・プーケットで逮捕された。)が発覚、バブルの暗部が徐々に表面化していった。なお、この事件では、『日銀貸出一千億円回収事件』が派生している(事件後、日銀出身の新井永吉副会長兼首都圏営業本部長が責任を問われ更迭されたが、これを”日銀天下り排除”と受け止めた三重野康日銀総裁が反発し、日銀は直ちに東海銀行に対する日銀貸出の1,000億円の回収を打出した。この露骨な制裁は多くのメディアで批判されたが、結局、後任天下りとして青木修三日銀業務局長を国際部顧問として迎えることで決着した。)。1998年3月には、合計6,000億円(第2回優先株式では第三者割当にて調達総額3,000億円、第3回優先株式では第三者割当にて調達総額3,000億円。)の公的資金を受入れを余儀なくされる。
こうした中、もはや単独での生き残りは困難と考えた東海銀行は、1998年9月、同じく地銀的性格を持つ都銀中位行であったあさひ銀行(現りそな銀行・埼玉りそな銀行)と、2000年10月を目処に持株会社方式の経営統合で合意、2001年秋には、地域別に銀行を再編し、さらに賛同する地方銀行を組み合わせ“マルチ・リージョナル・バンク”を目指す方針を立てた。東海銀行があさひ銀行をパートナーに選んだ理由として、規模的に大差がないことに加え、あさひ行内が旧埼玉銀行系と旧協和銀行系で人事抗争を繰り返しており、東海銀行で主導権が握れると考えたためであった。
1999年8月に第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行による3行統合(みずほフィナンシャルグループ)、続く同年10月にはさくら銀行・住友銀行の合併(三井住友銀行)が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行のメガバンクへの再編が進む。両行の交渉が長引く中での相次ぐ金融再編で、「あさひ・東海」連合は、規模的に中途半端となっていた。
こうした金融再編に一人取り残されていたのは、その強烈な行風が世間の反感を買った三和銀行であった。再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ名古屋大学出身であった「あさひ・東海」連合に急接近する。「あさひ・東海」連合も、スケールメリットを希求する中で、2000年3月、この「3行による持株会社統合」を受け入れることになった。東海銀行にとって、三和銀行は1.6倍の規模を持っていたが、あさひ銀行と組めば、主導権を取られまいと考えていた。
しかし、三和銀行は経営の迅速化を名目に三行の合併を主張し始める。また、営業政策でも、欧米のリージョナルバンク(地域銀行)を模範とする地域密着型の戦略を重視するあさひ銀行と、統合によって自己資本を充実させ、国際業務や大企業融資を重視するマネーセンターバンク戦略を重視する三和銀行の新銀行戦略との隔たりは大きかった。結局、経営主導権を三和に握られることを嫌ったあさひ銀行は、2000年6月に構想より離脱(この背景には、あさひ行内で主導権を握りつつあった旧埼玉銀行出身者及び埼玉財界の意向が働いた)。
結局、三和銀行と東海銀行の合併という形になり、存続会社も新銀行代表者も存続する勘定系システムも全て三和銀行が主導権を握った。東海銀行は唯一、本店所在地を確保したのみであったが、事実上の機能は三和銀行東京本部に置かれた。
実態は、最も東海銀行が恐れていた吸収合併であった。
[編集] 年表
- 1877年04月- 第十一国立銀行(愛知銀行の前身)設立。
- 1941年06月- 愛知・名古屋・伊藤の3行が合併し、東海銀行設立。
- 1949年06月- ミリオン定期預金の販売を開始。
- 1954年03月- 初の海外拠点ニューヨーク駐在員事務所を開設。
- 1959年- 『さつき会』結成。
- 1959年09月- 伊勢湾台風来襲。中部圈経済の復興に全力をあげて取り組む。
- 1962年12月- 中央信託銀行へ信託業務を譲渡。
- 1963年08月- 初の海外支店ロンドン支店を開設。
- 1971年02月- オンラインシステム開始。
- 1974年03月- 初の現地法人加州東海銀行を設立。
- 1975年05月- 東海財団設立。
- 1984年02月- トヨタ生協と日本初のバンクPOSを実施。
- 1988年09月- 第3次オンラインシステム(TWINS21)稼働。
- 1989年10月- ロンドン証券取引所等に株式上場。
- 1991年06月- 創立50周年、記念事業を展開。衛星通信システム稼働。
- 1991年10月- 三和信用金庫を合併。
- 2001年04月- 三和銀行、東海銀行、東洋信託銀行が株式移転により株式会社UFJホールディングスを設立し、これら三行はUFJホールディングスの完全子会社となる。
- 2001年07月、東洋信託銀行と東海信託銀行が合併
- 2002年01月- 三和銀行及び東海銀行が合併し、株式会社UFJ銀行となる
[編集] 『さつき会』
1959年 に、千代田生命保険(2000年、経営破たん)・千代田火災海上保険(現・あいおい損害保険)・トーメン(現・豊田通商)と提携、以降、この4社に中央信託銀行(現・中央三井信託銀行)を加えた金融5社で「さつき会」を結成していた(トヨタ自動車はオブザーバー参加)。しかし、構成した5社がいずれも単独では生き残れなかったため、現在は実質消滅している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 『東海銀行五十年史』
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