枢密院
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枢密院(すうみついん)は、3つの異なる内容を指す言葉である。語源的には、中国の唐王朝中頃に生れた機構のことで、主として軍制を掌った。以後、五代・遼・宋・金・元と継承された。これが第1の意味である。第2には、イギリスの国王・天皇・皇帝などの諮問機関の名称として用いられる。第3の意味は、明治から昭和22年まで、日本の主要な国家機関の一つとして存在したものを指す。これらは内容的に無関係のものである。
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[編集] 中国
唐王朝の中頃に生れた機構で、主として軍制を掌った。これは以後、五代の各王朝、遼、北宋、金、南宋、元と歴代王朝に継承された。
[編集] 元
元の枢密院は、行政の中書省、監察の御史台と並ぶ、1262年に設置された軍事を司る最高機関。 名目上の長は枢密使であるが、常に皇太子が兼職するため、事実上の長は知枢密院事。
[編集] イギリス
イギリスの枢密院 (w:Privy Council) は、ノルマン朝以来、国王の政治上の諮問機関として全貴族からなる封臣(ほうしん)会議が前身である。14世紀末ごろリチャード2世の時代に枢密院の名称で呼ばれるようになり、現在に至っている。形式的には行政の最高権限を有している(内閣は枢密院の一委員会として誕生した)が、現在の機能は枢密院司法委員会傘下の自治領裁判所・植民地裁判所・領事裁判所および教会裁判所の有する海外領土から上訴や宗教裁判など限定的なものである。司法委員会は英国の最高裁判所である貴族院上訴委員会とともに英国の司法府を構成する。
枢密院議長は内閣の閣僚として通常、下院あるいは上院の院内総務の任務を果たす。
[編集] 日本
日本の枢密院は、大日本帝国憲法下における天皇の最高諮問機関であった。略称は枢府(すうふ)。種々の問題が大日本帝国憲法を遵守しているか否かを審議したことから、「憲法の番人」と呼ばれた。
明治21年(1888年)、大日本帝国憲法草案審議のために創設された。大日本帝国憲法56条では、「枢密院官制ノ定ムル所ニ依(よ)リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応(こた)ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と規定された。初代議長は、伊藤博文。
枢密院は議長1名、副議長1名、顧問官24~28名で組織した。任用資格は40歳以上、元勲練達の者を選ぶとされていた。このほか、国務各大臣は顧問官として議席を有し、表決に加わった。東京にいる成年の親王も会議に参加した。
- 枢密院への諮詢事項
- 皇室典範・皇室令において枢密院の権限に属するとされている事項
- 憲法の条項に関する草案と疑義
- 憲法附属法令に関する草案と疑義
- 枢密院の官制と事務規程の改正
- 緊急勅令・緊急財政処分
- 国際条約の締結
- 戒厳の宣告
- 教育に関する重要勅令
- 行政各部の官制など官規に関する勅令
- 栄典・恩赦の基礎に関する勅令
- その他、特に諮詢された事項
枢密院は施政に関与することができず(枢密院官制8条)、大臣以外と公務上の交渉を行うことを禁じられていた(枢密院事務規程第3条)。
枢密院と政府の政策が対立した場合、話し合いによりどちらかが譲歩するケースが多かったが、1927年には台湾銀行救済のための第1次若槻礼次郎内閣による緊急勅令案を19対11で否決し内閣を総辞職に追い込んだ。これは枢密院によって内閣が倒れた唯一の例である。
とは言え、枢密院で議案が否決されたらと言って内閣が総辞職しなければならないという規定はどこにもなく、この場面で辞職に踏み切ったのは若槻の性格の弱さによるものと言われる。
たとえば、似たような問題として浜口雄幸内閣におけるロンドン海軍軍縮条約の批准問題がある。このときは、条約批准を目指す政府と枢密院・軍部および鳩山一郎らを中心とする政友会が対立し、加藤寛治軍令部長による帷幄上奏まで行われ、枢密院でも反浜口内閣の動きが大いに顕在化した。 しかし、浜口首相は西園寺公望や世論を背景として枢密院に対して断固とした態度で臨み、枢密院顧問官の伊東巳代治が要求した資料の提出を拒むほどであった。東京日日新聞をはじめとする大新聞も猛烈な枢密院批判で内閣を擁護し、枢密院の議員は内閣の奏請で罷免できると指摘するなど健筆を振るった。こうして枢密院側が折れて浜口内閣は条約批准を達成した。
これほどの対立には至らなくとも、明治から大正にかけて山県有朋が枢密院を盾に反政党的な策動を行ったことは有名で、山県の死後も1928年の不戦条約批准問題等、1930年のロンドン軍縮条約における統帥権干犯問題において策動した。国政に隠然たる権勢を誇っていたが、昭和6年(1931年)の満州事変以後、政党勢力が後退して軍部の台頭が顕著になるに連れてその影響力は低下し、日本国憲法制定により、昭和22年(1947年)に廃止された。
枢密院の建物は大正10年に皇居内に建造されたものが、戦後は皇宮警察として使われるなどして今も残っている。
[編集] 歴代枢密院議長
枢密院議長のことを枢相と呼ぶ場合もある。
枢密院議長(枢密院) | ||
1 | 伊藤博文 | 1888年4月30日-1889年10月30日 |
2 | 大木喬任 | 1889年12月24日-1891年6月1日 |
3 | 伊藤博文 | 1891年6月1日-1892年8月8日 |
4 | 大木喬任 | 1892年8月8日-1893年3月11日 |
5 | 山縣有朋 | 1893年3月11日-1894年12月18日 |
6 | 黒田清隆 | 1894年3月17日-1900年8月25日 |
7 | 西園寺公望 | 1900年10月27日-1903年7月13日 |
8 | 伊藤博文 | 1903年7月13日-1905年12月21日 |
9 | 山縣有朋 | 1905年12月21日-1909年6月14日 |
10 | 伊藤博文 | 1909年6月14日-1909年10月26日 |
11 | 山縣有朋 | 1909年10月26日-1922年2月1日 |
12 | 清浦奎吾 | 1922年2月8日-1924年1月7日 |
13 | 濱尾新 | 1924年1月13日-1925年9月25日 |
14 | 穂積陳重 | 1925年10月1日-1926年4月8日 |
15 | 倉富勇三郎 | 1926年4月12日-1934年5月3日 |
16 | 一木喜徳郎 | 1934年5月3日-1936年3月13日 |
17 | 平沼騏一郎 | 1936年3月13日-1939年1月5日 |
18 | 近衛文麿 | 1939年1月5日-1940年6月24日 |
19 | 原嘉道 | 1940年6月24日-1944年8月7日 |
20 | 鈴木貫太郎 | 1944年8月10日-1945年4月7日 |
21 | 平沼騏一郎 | 1945年4月9日-1945年12月3日 |
22 | 鈴木貫太郎 | 1945年12月15日-1946年6月13日 |
23 | 清水澄 | 1946年6月13日-1947年5月3日 |
[編集] 歴代枢密院副議長
枢密院副議長(枢密院) | ||
1 | 寺島宗則 | 1888年5月10日-1891年9月10日 |
2 | 副島種臣 | 1891年9月10日-1892年3月11日 |
3 | 東久世通禧 | 1892年3月17日-1912年1月4日 |
4 | 芳川顕正 | 1912年1月9日-1917年3月20日 |
5 | 清浦奎吾 | 1917年3月20日-1922年2月8日 |
6 | 濱尾新 | 1925年2月15日]]-1924年1月13日 |
7 | 一木喜徳郎 | 1924年1月14日-1925年3月30日 |
8 | 穂積陳重 | 1925年3月30日-1925年10月1日 |
9 | 岡野敬次郎 | 1925年10月1日-1925年12月23日 |
10 | 倉富勇三郎 | 1925年12月28日-1926年4月12日 |
11 | 平沼騏一郎 | 1926年4月12日-1936年3月13日 |
12 | 荒井賢太郎 | 1936年3月13日-1938年1月29日 |
13 | 原嘉道 | 1938年2月3日-1940年6月24日 |
14 | 鈴木貫太郎 | 1940年6月24日-1944年8月10日 |
15 | 清水澄 | 1944年]]8月10日-1946年6月13日 |
16 | 潮恵之輔 | 1946年6月13日-1947年5月3日 |
[編集] 参考文献
- 『日本の歴史24 ファシズムへの道』大内力著 ; 講談社 1967年
カテゴリ: 明治時代 | 大正時代 | 昭和時代 | 廃止された日本の国家機関