標題音楽
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標題音楽(英語:program music、独語:Programmmusik、仏語:musique à programme)とは、音楽外の想念や心象風景を聴き手に喚起させることを意図して、情景やイメージ、気分や雰囲気といったものを描写した器楽曲のことをいう[1]。反対語の「絶対音楽」は、音楽外の世界を特に参照せずとも鑑賞できるように作曲された音楽作品(またはそのような意図で創られた楽曲)のことをいう。
標題音楽という語は、ほとんど専ら19世紀の欧米のロマン派音楽について使われている。この概念はそのころ開花したからである。ただし標題音楽の歴史は深く、19世紀の作品群はそのごく一部に過ぎない。また標題音楽という概念は、純粋な器楽曲の用語とするのが通例であり、歌劇や歌曲のような声楽作品に使うことは滅多にない。もっとも、例外もある。たとえば「シューベルトの歌曲におけるピアノや、ワーグナー以降の楽劇におけるオーケストラは、しばしば標題音楽的な重い役割を担っている」といった表現がまったく出来ないわけではない。それにクレマン・ジャヌカンの《鳥の歌》のように、描写的・暗示的な声楽曲も存在する。
なお、「標題音楽の標題」と「音楽作品の表題」は、とかく混同しやすいが、この二つは峻別しなければならない。標題とは、単に題名であるだけでなく、楽曲の表現内容や物語的な展開を聴き手に対して誘導し、場合によっては聴き手の想像力に働きかける役割も果たしているからである。そして表題は作曲者自身でなくても付けられるのに対して、標題は作曲者の同意なしに他人が付けることはできない。この意味において、「標題」は「表題」に含まれうるが、その反対はあり得ないのである。
目次 |
[編集] 標題音楽の歴史
[編集] ルネサンス音楽
ルネサンス時代には結構な量の標題音楽が創られており、たとえばイングランドのヴァイオル楽派やヴァージナル楽派にその典型を見ることが出来る。中でも有名なのは、ウィリアム・バードの《戦争 The Battell 》やマーティン・ピーアソンの《落ち葉 The Fall of the Leafe 》といった鍵盤楽器であろう。あまつさえバードは自作に、次のように描写的な一節さえ書き入れている。
[編集] バロック音楽
当時を代表する描写音楽の大家といえば、アントニオ・ヴィヴァルディを措いて他にない。わけてもヴァイオリン協奏曲《四季》は、標題となる(内容を示唆する)ソネットが作曲者自身によって用意されており、吠える犬や虫の羽音、遠雷と通り雨、寒風と氷上の足跡(寒さに耐えかね歯を食いしばる音)をさまざまな演奏技巧を凝らして描出することが譜面を通じて要求されている[2]。ほかにもヴィヴァルディには、《海の嵐》《夜》といった楽曲がある。ドイツでは、ヨハン・クーナウが『聖書』のさまざまな場面を音楽的に解釈した《聖書ソナタ》を作曲しており、ヨハン・セバスティアン・バッハはチェンバロのためのカプリッチョ《最愛の兄の旅立ちに》BWV.892 を作曲している。
[編集] 古典派音楽
古典派音楽では、標題音楽が他の時期ほど目立っていない。この時期は、たぶんどの時期にもまして、音楽の内部からドラマを紡ぎ出す傾向が顕著で、とりわけソナタ形式で作曲された楽曲がそうだった。だからといって標題音楽的な思考がまったく皆無だったとは言えない。ヨーゼフ・ハイドンは、自分の初期の交響曲について、具体的にどれであるとは名状しなかったものの、「神と罪びととの対話」と呼んだことがあり、カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフは、オウィディウスの『変身物語』による一連の交響曲を作曲している。ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンの《田園交響曲》は、まだ絶対音楽として聴くべき作品であり、音画よりもむしろ感情や情念の表現に比重が置かれている[3]とはいえ、それでもなお情景を示唆するような題名が各楽章に添えられているうえ、第2楽章ではせせらぎや鳥の囀りが、第4楽章では突風と落雷が音楽で描写されるなど、新しい時代への窓口になっている。とりわけエクトル・ベルリオーズの《幻想交響曲》への影響は見落とせない。ベートーヴェンでは他に、支援者で親友のルドルフ大公との惜別と再会を表現した《「告別ソナタ」》が知られるが、同類の標題的なピアノ・ソナタやピアノ曲はヤン・ラディスラフ・ドゥシークも手懸けており、とりわけフランス革命やナポレオン戦争にからんだものが注目されている。
[編集] ロマン派音楽
標題音楽はとりわけロマン派音楽に於いて花開いた。
エクトル・ベルリオーズの《幻想交響曲》は、作曲者自らが練り上げた、感情面が誇張されたラブストーリーを音楽に書き換えたものだった。フランツ・リストは、明快に標題的なピアノ曲を数多く発表しているが、実のところ交響詩の創始者でもあった。モデスト・ムソルグスキーのピアノ曲《展覧会の絵》(1874年)は、モーリス・ラヴェルの編曲によって管弦楽曲として有名になったが、亡き友の遺業を偲んでその絵画やスケッチを音楽に移し替えただけでなく、「プロムナード」楽章において、ピアノのダイナミックレンジの広さを恃みに、画廊を見て回る作曲者自身の心情の変化も再現されている。老練な作曲家のカミーユ・サン=サーンスは、「音詩」とよばれる標題音楽をいくつか手懸け、なかでも管弦楽のための《死の舞踏》や室内オーケストラのための《動物の謝肉祭》が有名である(ちなみに後者には前者のパロディさえ含まれている)。ほかにフランスの有名な交響詩に、ゲーテの寓話に基づくポール・デュカの交響的バラード《魔法使いの弟子》がある。
標題音楽の分野で音楽による描写におそらく最も長けていたのは、リヒャルト・シュトラウスであろう。シュトラウスはまた、「音楽は何だって表現できる。たとえばティースプーンでさえも」と豪語していたとしばしば伝えられている[1]。シュトラウスの代表的な交響詩に、《ドン・ファン》(古いプレイボーイ伝説に基づく)や《死と浄化》(死にゆく男が昇天するまでが描かれる)、《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》(ティル・オイレンシュピーゲル伝説に基づきその活躍が描かれるだけでなく、「今は昔」の前口上まで音楽に移されている)、《英雄の生涯》(作曲者自身である無名の英雄の生涯の描写で、旧作の引用を含む)がある。シュトラウスはまた、ベルリオーズ以降で屈指の標題交響曲の作曲家でもあり、自身の家庭や夫婦生活を描いた《家庭交響曲》(赤ん坊を寝かしつける場面の音楽が有名)や、自然の威容と美観を描いた《アルプス交響曲》は重要である。弦楽合奏のための《メタモルフォーゼン》は、隠された主題に基づく変奏曲であり、描写性のない絶対音楽であるにもかかわらず、さまざまな引用楽句の存在や、曲末の「追悼」という一語によって、標題的な性格も否定されてはいない。エドワード・エルガーの管弦楽のための《エニグマ変奏曲》も、同じく秘められた「エニグマ(謎の)主題」による変奏曲であるが、これは各変奏が作曲者の知人や友人の音楽的肖像であることまでは解明されている。
[編集] 現代音楽と標題音楽
アルバン・ベルクの《弦楽四重奏のための抒情組曲》は長年、絶対音楽であると見なされてきたが、1977年にジョージ・パールによって、当初は愛人ハンナ・フックス=ロベッティンに献呈されていたように、恋愛がらみの標題が秘められていることが明らかにされた[2]。重要なライトモティーフの一つは、ドイツ音名で A - B - H - F という音列であるが、明らかにベルクとハンナの頭文字を合体させたものにほかならない。あまつさえ終楽章には、シャルル・ボードレールの『深キ淵ヨリワレハ叫ビヌ』に曲付けされた声楽パートが存在していたが、出版に向けて作曲者自身によって、それは無かったことにされたのである[4]。
[編集] 音楽みな標題音楽?
Some people and theories argue that there is indeed no such thing as true "absolute music" and that music always at least conveys or evokes emotions. While non-professional listeners often claim that music has meaning (to them), "new" musicologists, such as Susan McClary (1999), argue that so called "abstract" techniques and structures are actually highly politically and socially charged, specifically, even gendered. This may be linked to a more general argument against abstraction, such as Mark Johnson's argument that it is, "necessary...for abstract meaning...to have a bodily basis." (McClary, 1991) However, a more loosely specific definition of absolute music as music which was not composed with a programatic intent or plan in mind may be adopted.
More traditional listeners often reject these views sharply, asserting that music can be meaningful, as well as deeply emotional, while being essentially about itself (notes, themes, keys, and so on), and without any connection to the political and societal conflicts of our own day.
As such, most classical music is absolute music, as is suggested by titles which often consist simply of the type of composition, a numerical designation within the composer's oeuvre, and its key. Bach's Concerto for Two Harpsichords in C Minor, BWV 1060; Mozart's Piano Sonata in C Major, K. 545, and Beethoven's Symphony No. 7 in A major (Opus 92) are all examples of absolute music.
Program music was quite popular during the Romantic era. Many mainstream "classical" works are unequivocally program music, such as Richard Strauss's An Alpine Symphony, which is a musical description of ascending and descending a mountain, with 22 section titles such as "Night," "Sunrise," "By the Waterfall," "In Thicket and Underbrush on the Wrong Path," "Summit," "Mists Rise," and "Storm and Descent." Beethoven's Symphony No. 6 is clearly program music, too, with titled movements and instrumental depictions of bird calls, country dances, and a storm. Some might criticize Disney's animators for providing a pictorial interpretation of Bach's Toccata and Fugue in D Minor, but nobody can deny an extramusical association for Dukas's The Sorcerer's Apprentice. During the twentieth century, the increased influence of modernism and other anti-Romantic trends contributed to a decline in esteem for program music, but audiences continued to enjoy such pieces as Arthur Honegger's depiction of a steam locomotive in Pacific 231. Also, program music lives on in movie soundtracks, which often feature ultra-modern sounding atonal programmatic music.
Music that is composed to accompany opera and ballet is, of course, program music, even when presented separately as a concert piece. Aaron Copland was amused when a listener said that when she listened to Appalachian Spring she "could see the Appalachians and feel Spring," the title having been a last-minute thought, but it is certainly program music. Film scores are always program music, and some of them, such as Prokofiev's music for Alexander Nevsky, have found a place in the classical concert repertoire.
And, of course, there is music that falls in between, with titles that clearly suggest an extramusical association, but no detailed story that can be followed and no musical passages that can be unequivocally identified with specific images. Examples would include Dvořák's Symphony No. 9, From the New World or Beethoven's Symphony No. 3, Eroica.
In popular music, by contrast, the norm is programmatic music, usually vocal. A common term for non-vocal popular music, and thus for practical purposes a term for absolute music in a popular context, is "instrumental" or "instrumental section".
While the debate is of interest to many, for practical purposes most scholars use the term "program music" in the narrower sense described above.
[編集] 註
- ^ "Richard Strauss Biography" .
- ^ Perle, George (1985).The Operas of Alban Berg: Volume Two, Lulu, 18-29, California: University of California Press. ISBN 0-520-06616-2.
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