源義国
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源義国(みなもと の よしくに、寛治五年(1091年)? - 久寿二年(1155年))は、平安時代後期の武将。河内国(大阪府)を本拠地とした河内源氏の源義家の三男(異説あり)。母親は藤原有綱の息女。通称は「足利式部大夫」「荒加賀入道」。これらは官職の式部丞、加賀介に由来する。最高官位:従五位下。官職:帯刀長、式部丞、加賀介。幼名:普賢丸。
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[編集] 立場・性格
源義家の三男であり、長男源義宗が早世し、次男源義親が西国で反乱を起こすと、弟の四男源義忠とともに次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。しかし、荒加賀入道と晩年言われたように、乱暴狼藉を行ったことや、時代の趨勢にあわないと義家に判断されて後継者からはずされていった。特に、叔父源義光と関東で合戦に及ぶにいたって、勅勘を蒙るなど、自身の立場を考えない行動があった。しかし、それを好意的に見ると、父、義家の死後、叔父源義光が源氏の棟梁を狙っていることを感知した義国が弟源義忠と連合して父の遺産(源氏の棟梁の座を含む)を守ろうとして叔父と戦ったとも考えられる。義国と弟の義忠は父母を同じくする兄弟で、当時の慣習からすると、義国と義忠は同じ家で幼少から育てられたと考えられ、仲が良かったと考えられる。史上においても、義忠が暗殺されると、その子らは母方の平氏によって養育されるが、義忠の長男源経国の烏帽子親となり、足利へ連れて帰り、領地を与え(預け)たりして厚遇している。そういった部分からはただ荒っぽいだけではなく、弟思いのやさしい兄としての義国の姿が見え、一本気で短気だが一族を思うやさしい一族の保護者という側面も見えてくる。
[編集] 生涯
- 嘉承元(1106)年、叔父源義光と常陸国において合戦する。いわゆる「常陸合戦」。その結果、義国は勅勘を蒙り、父義家に捕縛命令が下りる。また、義光及びその与党、平重幹にも捕縛命令が各地の国司に下る。
- 大治2(1127)年、次男、義康が誕生。
- 康治元(1142)年、足利にある伝領を鳥羽院御願寺の安楽寿院に寄進し足利庄として成立させる。(八条院領から大覚寺統へ伝領)
- 康治2(1143)年、梁田郡内の開発私領を伊勢神宮に寄進し梁田御厨を立券。
- 久安5(1149)年、義国の郎党、京洛において乱闘し、義国が責任を問われる。
- 久安6(1150)年、右近衛大将大炊御門藤原実能と争い、実能の屋敷を焼き払い勅勘を蒙る。
- 久寿2(1155)年、長男義重の新田荘の館で死去。
- 墓所は鑁阿寺(栃木県)にある。
[編集] 生没年
義国の生年、没年は諸説があって定かではない。通説では、寛治5(1091)年生れ。仁平4(1154)年出家。久寿2(1155)年6月26日に死去『出典:尊卑分脈』。
ただし、異説も多い。また、1091年の生れとすると、弟義忠(四男)の永保3(1083)年より8歳も年下になってしまい兄弟の順が崩れる。また、義国が誕生した時点での義家の年齢も52歳となる。もっとも、義国・義忠の長幼は全て系図上の記載であるため根拠に乏しく、この点は考慮する必要があるだろう。そのため、義国の誕生年に関しては謎が多く、須藤聡の論文「平安末期清和源氏義国流の在京活動」(『群馬歴史民俗』16号、1995年)は1080年~1090年の間とする。多分に1083年以前に生れたものと解釈したほうがよいと思われるが今後の研究を待ちたい。
参考に他の生年説を紹介
- 寛治3(1089)年説 上記の説の異説。小説などでは採用が多いが詳細は不明。採用している史書は特にない。
- 永保2(1082)年説 足利鑁阿寺所蔵の「新田足利両家系図」に、義忠没時の義国の年齢を18歳と記している。昭和3(1928)年発行の『足利市史』では、これを28歳の誤りであるとし、逆算して永保2(1082)年誕生としている。採用している史書「足利市史」。
[編集] 子女
[編集] 子孫
新田・足利両氏の祖。末裔には山名氏、里見氏、桃井氏、石塔氏、吉良氏、今川氏、細川氏、畠山氏、斯波氏、一色氏、世良田氏、徳川氏、松平氏などがある。鎌倉幕府倒幕時の鎌倉攻めの総大将新田義貞、室町幕府を開いた足利尊氏や桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元、室町前期に室町幕府の基礎を固めた斯波義将、畠山満家、応仁の乱の西軍、東軍の大将であった細川勝元、山名宗全らも彼の末裔である。