信州村上氏
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信州村上氏(しんしゅうむらかみし)とは、戦国時代の村上義清に代表される河内源氏の支流の村上氏を指す。信濃村上氏とも。
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[編集] 出自
[編集] 初代まで
村上氏の氏祖とされるのは、源顕清である。顕清は、源頼信の曾孫にあたる。 この時期の系譜
- 源頼信-源頼清-源仲宗-源顕清
[編集] 信濃との関係
源惟清が寛治8年(1094年)8月17日、白河上皇呪詛したとされ、伊豆大島に配流となり、その父や兄弟にも処分が同日に下った。
この中の源盛清が信濃国更級郡村上郷に配流されたことが、村上氏の発祥といえる。
[編集] 平安時代
[編集] 保元の乱
越前に配流になっていた源顕清の子、崇徳院判官代源為国とその子、源信国、源基国が保元元年(1156年)の保元の乱で崇徳上皇に味方し参加。敗戦し囚われたが、妻が後白河天皇の側近藤原通憲の娘であることを理由に赦免された。(一説に基国は後白河天皇方で、父の助命を求めたともいう。) 為国は叔父の源盛清を頼り信濃国更級郡村上郷へ移住し、叔父の養子となり村上郷を相続し、村上氏を称するようになる。 この時期の系譜
- 源仲宗-源顕清-源為国
- 源仲宗-源盛清=源為国-源信国
[編集] 治承・寿永の乱
信濃国の木曽地方で挙兵した源義仲軍に参加し、北陸地方での戦いに村上為国とその子息、村上信国、村上基国らは参加し、義仲軍とともに寿永2年(1183年)7月28日に上洛。しかし、義仲と後白河法皇が対立すると後白河法皇方に味方し、多田行綱の指揮下で水島の戦いから帰京した義仲軍と11月19日に法住寺殿の合戦で戦うが敗戦。三男の村上基国を失い、村上為国、信国父子は信濃へ帰国。源頼朝が後白河法皇の院宣に従い、源義仲討伐の軍を起こすとそれに参加。その後の平家追討にも参加し、一ノ谷の戦いにも参加。
[編集] 村上氏の基礎
村上氏の基礎を築いたのは上記の村上為国である。保元の乱、法住寺殿の合戦などで敗戦するも、奇跡的な復活をとげ、平家追討に活躍するなど信濃源氏村上氏の基礎を築いた。また、多くの子があり、信国、安信、基国、明国、泰遠、惟国、成国らを信濃国内に配置し勢力を広げていった。
[編集] 鎌倉時代
[編集] 鎌倉時代の村上氏の立場
河内源氏の一支流であるものの、河内源氏の最盛期を築いた源頼義・源義家父子の子孫ではないため、守護などへの登用はなく、一御家人という地位に甘んじざるを得なかった。まして、鎌倉幕府の実権が北条氏の手に移ると、北条氏と結縁のない村上氏は鎌倉幕府の中枢からは忘れられていった。 その間、村上氏は下記のように家督を相続していった。
- 村上為国-信国-安信-信村-胤信-信泰
[編集] 鎌倉幕府倒幕と村上氏
鎌倉時代末期、村上氏の当主は村上信泰であったが、信濃国内では声望があったものの、幕府内では忘れ去られた存在であったとされる。村上氏の歴代は鎌倉幕府に対して恩顧の意識はなく、その勢力を認めない幕府に対して不満を持っていた。信泰の子、村上義光は大番役であったとき、倒幕を考えていた後醍醐天皇の皇子、護良親王が接近し、村上氏に対し倒幕を示唆したとされ、義光は護良親王に仕え、元弘元年(1331年)の元弘の変が起こると、十津川、吉野、高野山などを親王とともに転々として2年にわたり幕府軍と戦い続け、元弘3年(1333年)、幕府軍に追われ吉野から逃亡する際、「われこそは護良親王ぞ、汝ら腹を切るときの手本にせよ」と護良親王の身代わりとなって腹を切った。その義光の子、村上義隆も同じく吉野でしんがりをつとめて討ち死にするなど、倒幕のために働いた。
[編集] 建武の新政と村上氏
義光、義隆父子の後は、信泰の子で義光の弟である村上信貞が家督を相続し、信濃国での権益と勢力を建武の新政下で一定の枠内で認められ、「信濃惣大将」と称せられるようになった。その信貞は建武2年(1335年)に諏訪氏の支援のもと蜂起した北条得宗の北条高時の遺児、北条時行とそれに呼応した信濃の北条与党の叛乱(中先代の乱)を鎮圧するため、信濃国各所に出兵し北条与党と交戦した。
[編集] 南北朝時代
[編集] 南北朝争乱と村上氏
箱根竹の下の合戦には足利尊氏の弟足利直義軍に加わって新田義貞軍を撃破する際に戦功があり、小県郡塩田庄を与えられていることから、村上信貞は足利尊氏が謀反を起こした際には足利方であった。それ以降、村上信貞は、信濃国守護に任命された小笠原貞宗とともに、国内の北条与党の討伐に邁進した。この頃の村上氏の立場は、南朝、北朝というよりは、反北条という立場で、北条氏とその与党の討伐を遂行することで信濃国での勢力拡大と地位向上を目指していた。
惣領家である信濃国の村上氏は次第に北朝方に近い位置に移動していったが、村上氏がすべて北朝方であったわけではなかった。前述の村上義光、義隆父子の系統である村上義光の子で義隆の弟、もしくは義隆の子とされる村上義武、その子、村上義弘は南朝方について活動していた。それが村上水軍と後に言われる勢力である。
伊予国を中心に瀬戸内海に活動した村上氏は、源仲宗の時代に、伊予守になった伯父、源頼義に従って伊予に下向した時期があり、後に、前述の白河上皇呪詛の事件があり、どちらも瀬戸内海に面している周防、讃岐に流され水軍と深い関係を結んだ。その孫にあたる村上定国(前述の村上為国の弟)が治承・寿永の乱の際に、再び関係を持ち、村上水軍の初代となったとされる。その村上水軍を味方にするために後醍醐天皇ら南朝首脳は村上義武を派遣し、その子、義弘が水軍の村上氏を相続したとされる。
この時期の村上氏は、信濃では北朝方、瀬戸内海では南朝方として活動していたことになる。
[編集] 室町時代
[編集] 幕府との対立
村上信貞の後を、その子、村上師国。そして師国の子、村上満信と系譜がつながり、師国、満信父子は、村上氏の勢力と権益を認めず守護に任命しない室町幕府に対して不信感を持ち、幕府が任命した守護を排斥する動きを見せた。くわえて室町幕府は村上氏の持つ信州惣大将の地位を軽視し続けたために、村上氏はそれに対抗するために近隣の高梨氏・嶋津氏らの反守護的な国人層を組織して守護に反抗するようになった。
幕府はそれに対して、幕府の重臣であり足利一門で実力者の斯波義将を信濃国守護に任命して、村上氏らの動きを抑え込もうとした。至徳4年(1387年)、村上師国は斯波氏の守護代二宮氏の軍と信濃国北部の各所で戦い、斯波氏も村上氏の抵抗を抑え込むことはできずに終わった。
師国の子、村上満信は反守護勢力の盟主的な存在となり、信濃国内での勢力を強めていった斯波氏にかえて信濃国守護に任命された小笠原長秀に対しても応永6年(1399年)に不服従の意思を示し、守護支配に反発し、応永7年(1400年)、小笠原長秀を中心とする守護方の軍と村上満信を中心とする国人勢力の軍は篠ノ井で激突し、守護方の軍は撃滅され小笠原長秀はやっとのことで京都に逃亡し、守護を罷免された(大塔合戦)。
[編集] 村上氏の衰退?
応永23年(1416年)に起きた「上杉禅秀の乱」が起こると小笠原政康が中心になって一族・国人衆を率いて信濃国の防禦を固めた。この乱を契機として信濃国内の軍事指揮権を掌握した小笠原政康は幕府にその実力を認められ、12月に信濃守護職に任命されて力をつけていった。その結果、相対的に村上氏の勢力は弱まり始めた。
満信以降、村上中務大輔という者が反守護の中心となる。系譜上で中務大輔という人物を特定できないが、村上持清の可能性がある。その村上中務大輔を中心とする反守護軍と永享5年(1433年)3月に守護小笠原政康軍と合戦におよび、村上氏は鎌倉公方足利持氏に加勢を求めた記録があり、持氏は出兵を決断するが、関東管領上杉憲実の諫止により沙汰止みとなった。そのためか、村上中務大輔はその後、史料にみえない。推測でしかないが、この戦いの結果、援軍を得られなかった村上中務大輔は滅亡もしくは衰退したのではないだろうか。また、援軍を求めるようになった背景には村上氏の衰退と小笠原氏の台頭があったとことが推測される。
[編集] 村上頼清と関東の戦乱
村上中務大輔にかわり史上に現れるのは、氏祖の源頼清と同じ名を持った村上頼清で永享9年(1437年)に自ら将軍足利義教に出仕した記録がある。
前述の足利持氏と上杉憲実が前記の件から次第に関係がこじれて、ついに永享10年(1438年)8月、永享の乱が勃発する。永享の乱は上杉憲実に室町幕府が加担したために短期間で終わった。しかし、その持氏の遺児を擁して関東の雄、結城氏朝が挙兵し、永享12年(1440年)年3月、結城合戦が起こると、村上氏をはじめ信濃国の有力国人たちも守護小笠原政康に従っている。
この時代の村上氏の系譜
- 村上信泰-信貞-師国-満信-中務大輔(持清?)→村上頼清
[編集] 村上氏の系図の混乱
中務大輔もはっきりと満信の子であるとはわからないし、実名も不明で推測で村上持清のことではないかとしたが定かではない。頼清に関しても史料的に確認が取れない。頼清に関しては村上信貞の弟、村上義国の子とする説、村上信貞の兄、村上国信の子、村上国清の子とする説。村上持清の子とする説。村上満信の弟、村上満清の子とする説など多数あるが確定を見ていない。義国については優良な史料では存在の確認が取れていない。また、持清の子には成清という子以外は史料にみえない。満信の弟に関しても優良な史料には記載がない。それぞれに問題点をはらんでおり、この時期、村上氏の存在意義およびその勢力が衰退していたことを傍証している。
諸説一覧
- 村上信泰-義国-頼清
- 村上信泰-国信-国清-国清
- 村上信泰-信貞-師国-満信-持清-頼清
- 村上信泰-信貞-師国-満清-頼清
[編集] 小笠原氏の内紛と村上氏の再興
実力者小笠原政康の死後、小笠原氏惣領職をめぐって政康の長男の小笠原宗康と京都にあって将軍家の奉公衆を勤めた政康の甥(兄の子)の小笠原持長との間で家督相続をめぐって争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐でも功績があり、幕府の実力者管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。 しかし、現状を鑑みれば、在京期間が長く、信濃国と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され小笠原宗康が信濃守護職に任命された。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。文安3年(1446年)、小笠原宗康は弟の小笠原光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、漆田原で持長軍と戦ったが敗れ討ち死にしてしまった。持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は光康に譲られていたため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。その結果、持長と光康の対立は続いた。 その戦乱の中で村上氏は着実に勢力の回復を図り、中信濃と南信濃に分かれて対立する小笠原氏を尻目に北信濃を手中に収めていった。この当時の村上氏の当主は、頼清の子、または孫と思われる政清であった。
[編集] 戦国時代
[編集] 戦国大名としての躍進と没落
村上政清、村上政国父子は近隣の有力国人海野氏幸を討ち、勢力を拡大していった。政国の子である村上顕国の事跡は詳らかではないが、断片的な記録から、父と同様、周辺の諸氏に侵攻し村上氏の版図を拡大させたと推測される。一説には政国は「頼清」と顕国から「頼平」(頼衡)とも名乗ったとされ、政国(頼清)、顕国(頼平)の時代の信濃村上氏が源氏の名門として再興するだけの実力を備えていたことを推測させる(ただしこの時期の村上氏の系図が混乱していることは前述した通りである)。その子、村上義清の時代、村上氏は戦国乱世に登場することになる。義清は海野平の戦いで勝利し、海野氏、真田氏ら佐久郡の滋野氏一党を没落させることに成功したものの、まもなく甲斐国の武田信玄との抗争に敗れ北信濃を追われることになる。その後の義清は越後国の上杉謙信の客将となって失地回復を図ったが成功することはなかった。
[編集] 安土桃山時代・江戸時代
義清の子の村上国清(山浦国清)が武田氏滅亡後一時的に信濃に復帰するも、上杉氏の家臣としての立場であった。国清は上杉家の内紛に巻き込まれ没落し、歴史から姿を消す。国清以降の信濃村上氏については各説あって定かではない。また、村上氏諸氏の一部は上野国、下総国等の国々に飛散してしまったといわれる。なお、安土桃山時代に登場した村上頼勝は信濃村上氏の一族と称している。
[編集] 現在の村上氏
村上氏は全国でも上位にある大族である。しかし、多くは瀬戸内海地方(広島県、岡山県、愛媛県、香川県、山口県)に多く、それらは村上水軍の村上氏の末裔やそれに由来する人々で、信濃の村上諸氏の子孫は新潟県や埼玉県、千葉県等の一部に見られるがそれほど多くはない。2005年長野県坂城町において「村上サミット」が開催。