石崎信弘
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石崎 信弘(いしざき のぶひろ、1958年3月14日 - )は広島県広島市中区出身の元サッカー選手であり、サッカー指導者。現在Jリーグ・柏レイソル監督。
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[編集] 選手時代
現役時代のポジションはディフェンダーであった。
県立広島工業(通称・県工)時代は金田喜稔、楚輪博、木村和司、猿沢茂、室野哲雄らとスペクタクルなサッカーを展開し高校選手権でベスト4。かつて御三家と言われながら、永らく低迷が続く広島高校サッカーが最後に輝いた瞬間だった。
その後東京農業大学を経て1980年に当時日本リーグ2部に在籍していた川崎市に本拠を置いていた東芝サッカー部(コンサドーレ札幌の前身)に加入。2部時代には5年連続ベストイレブンに選ばれるなど活躍。1993年に現役引退した。
[編集] 指導歴
選手生活の晩年には既にコーチ稼業にも踏み出しており、引退からわずか2年後の1995年に当時JFLであったNEC山形(1996年以降はモンテディオ山形)の監督に就任。全国的に名の通った選手はいなかったが、4シーズンの指揮・指導の結果、10位、8位、5位、とステップアップさせ1998年には優勝争いを繰り広げ、山形をJFL3位にまで押し上げる結果を残した。
サッカー界屈指の若手監督との評価を受け、Jリーグを含む複数チームからのオファーを受けたが、当時山形より下位でJFLを終えて1999年、発足したばかりのJ2に加盟した大分トリニータに招聘され監督就任。新しい環境でチャレンジしたかった事と大分が積極補強を掲げた点が就任理由。新スタジアム完成前、練習環境も整わず、中位予想のチームを優勝争いさせ最終節を前に2位に浮上。勝てば自力で昇格を決めることが出来たが、最終節で奇しくも古巣の山形に引き分けという形で行く手を阻まれ、勝ち点1の差で惜しくも3位にとどまった。(秋天の陽炎参照) 翌年2000年は昇格候補に挙げられ、再び優勝争いに絡んだものの、またも勝ち点1差で3位に終わり(2000年J2最終節参照)、2001年はスタートダッシュに失敗したためシーズン途中で解任される。しかし在任中、加地亮らを育てた。
同年7月、J2に降格し低迷する川崎フロンターレの監督に就任。リーグ戦こそ7位に終わるもその年の天皇杯では「リストラ選手の活躍」により準決勝まで進出。2002年には川崎を4位に押し上げ、2003年には最終節まで昇格争いに絡みながら、またしても勝ち点1差に泣き3位に終わる(2003年J2第43節・最終節参照)。同年の天皇杯を最後に辞任。しかし我那覇和樹ら、ここでも若手選手を育て2006年、優勝争いに躍り出たフロンターレの礎を築いたとして再評価されている。
2004年、清水エスパルスのヘッドコーチとして初めてJ1に関わることとなった。同年7月にはアントニーニョ監督の辞任に伴って監督に昇任、J1で初采配を振るうことになったが、セカンドステージは16位中14位に終わり、チームを立て直すことができず辞任。
2005年には東京ヴェルディ1969のヘッドコーチに就任したが、オズワルド・アルディレス監督が成績不振(前半戦終了次点で17位と低迷)の責任を取って7月19日に解任されたことを受け、3試合ではあるが急遽監督代行に就任した。親善試合では、銀河系軍団レアル・マドリードを3-0で破った。
2006年からはJ2に降格した柏レイソルの監督に就任。「いい選手が皆出て行ってしまった」と漏らしながらも、「残った選手はサッカーに飢えている選手。彼らにいい刺激を与えてあげれば、非常にいいチームになる。」とし、さらには彼の指導を受けた山根巌、岡山一成を獲得し、崩壊しかけたチームを見事再生させる。選手からは「石さん」の愛称で親しまれ、「親父のような存在」として多大な信頼も得た。練習のミニゲーム敗戦チームの選手に一発芸をさせる「罰ゲーム」を名物にし、ファンの心をつかむ。若手の底上げを図りながらチームをよくまとめ、最終節湘南ベルマーレ戦で自身初となるJ1昇格を決めた。
[編集] 指導チーム
- NEC山形/モンテディオ山形:監督 1995年 - 1998年
- 大分トリニータ:監督 1999年 - 2001年6月
- 川崎フロンターレ:監督 2001年7月 - 2003年
- 清水エスパルス:ヘッドコーチ 2004年 - 2004年6月
- 清水エスパルス:監督 2004年7月 - 2004年11月
- 東京ヴェルディ1969:ヘッドコーチ 2005年 - 2005年7月
- 東京ヴェルディ1969:監督代行 2005年7月 - 2005年8月
- 東京ヴェルディ1969:コーチ 2005年8月 - 2005年12月
- 柏レイソル:監督 2006年 - 現在
[編集] 監督成績
年度 | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝ち点 | 順位 | チーム |
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1995年 | 旧JFL | - | 30 | 13 | 17 | -- | 41 | 10位 | NEC山形/モンテディオ山形 |
1996年 | 旧JFL | - | 30 | 16 | 14 | -- | 49 | 8位 | |
1997年 | 旧JFL | - | 30 | 19 | 11 | -- | 56 | 5位 | |
1998年 | 旧JFL | - | 30 | 22 | 8 | -- | 64 | 3位 | |
1999年 | J2 | - | 36 | 21 | 12 | 3 | 63 | 3位 | 大分トリニータ |
2000年 | J2 | - | 40 | 26 | 11 | 3 | 49 | 3位 | |
2001年 | J2 | - | 11* | 6 | 5 | 0 | 18 | ?位 | |
2001年途 | J2 | - | 44 | 20 | 21 | 3 | 60 | 7位 | 川崎フロンターレ |
2002年 | J2 | - | 44 | 23 | 10 | 11 | 80 | 4位 | |
2003年 | J2 | - | 44 | 24 | 7 | 13 | 85 | 3位 | |
2004年途 | J1 | 2nd | 15 | 4 | 10 | 1 | 13 | 14位 | 清水エスパルス |
2006年 | J2 | - | 48 | 27 | 14 | 7 | 88 | 2位 | 柏レイソル |
※2001年は11節終了後に監督解任、その後川崎の監督就任。
[編集] 評価
J2において勝ち点差1での昇格失敗を3度重ねたことから、悲運の名将とも言われる。しかし、彼の戦術の基本は「中盤の強烈なプレッシャーで相手の良い所を消す」ことにあるとも言われており、長丁場を闘うJ2では対策された時や、リーグの終盤に疲労がたまってきて機能しなくなった際にもろく、勝負強さという面で問題があるのではと指摘する声もある。
一方で、激しい練習量で若いチームを育て近代的なサッカー戦術を浸透させ、長いリーグ戦を戦い抜くチームを作り上げる能力については目覚しい実績を残しており評価が高い。また、特にJFLやJ2の貧弱な環境においても工夫と熱意で練習環境を整備する姿勢は、関係者やサポーターからも好意的に受け止められている。
[編集] トピックス
- 広島弁がキツくサッカー界の達川光男のような存在。
- FCバルセロナのファンで、試合のビデオをミーティングに持ち込む事がある。
- 現役時代は短気だったが、山形を指導して怒鳴ってもその後結果がよくないと、以降は指導法を変え選手を怒鳴らない優しい監督として知られる。なお本人によれば、既に気心の知れている選手に対しては今も怒鳴るとか。
- サポーターやインターネットコミュニティではノブリンと呼ばれる。これは本人が親戚との会話で、冗談で「ノブリンと呼んで」といったのに由来する。ちなみに「ノブリン」の愛称はフォークソングデュオ「あのねのね」のメンバー・原田伸郎が自らをこう呼んでいたのを借用したとのことである。
- 2003年に川崎フロンターレのJ1昇格を、わずか勝ち点1差で逃したため辞任したが、その後に行われた天皇杯ではホームグラウンド・等々力陸上競技場で最後の試合となる第2回戦(国見高校戦)終了後にサポーターの前で挨拶をした際、その終了後にグラウンド内に大量に進入したサポーターらによって胴上げをされた。
- アナウンサー渡辺真理の大ファンである。
[編集] 関連項目
- 秋天の陽炎
- 2000年J2最終節
- リストラ選手の活躍
- 2003年J2第43節・最終節
柏レイソル - 2007 |
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1 水谷雄一 | 2 小林亮 | 3 近藤直也 | 4 アルセウ | 5 古賀正紘 | 6 中谷勇介 | 7 大谷秀和 | 8 マルシオ・アラウージョ | 9 北嶋秀朗 | 10 フランサ | 11 阿部吉朗 | 13 小林祐三 | 14 佐藤由紀彦 | 15 菅沼実 | 16 桐畑和繁 | 17 永井俊太 | 18 山根巌 | 19 大久保哲哉 | 20 李忠成 | 21 南雄太 | 22 鈴木達也 | 23 藏川洋平 | 24 平山智規 | 25 長谷川悠 | 26 石川直樹 | 27 柳澤隼 | 28 谷澤達也 | 29 阿部嵩 | 30 石舘靖樹 | 31 加藤慎也 | 32 岡山一成 | 33 大島嵩弘 | 34 大河原亮 | 35 ドゥンビア | 36 池元友樹 | |
監督 石崎信弘 | クラブ | 編集 |
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