藤田和之
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藤田和之 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 藤田和之 |
本名 | 藤田和之 |
ニックネーム | 猪木イズム最後の継承者 リアル・ビースト |
身長 | 183cm |
体重 | 107kg |
誕生日 | 1970年10月16日 |
出身地 | 千葉県船橋市 |
所属 | 藤田事務所 |
スポーツ歴 | アマレス |
トレーナー | アントニオ猪木 マルコ・ファス |
デビュー | 1996年11月1日 永田裕志戦 |
藤田 和之(ふじた かずゆき、1970年10月16日 - )は、千葉県船橋市出身の日本の男性プロレスラー、総合格闘家である。千葉県私立八千代松陰高校、日本大学文理学部卒業。師匠であるプロレスラーアントニオ猪木のテーマ曲だった「炎のファイター」のオーケストレーションバージョンをテーマ曲にしており、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる。
目次 |
[編集] スタイル
アマチュアレスリングの選手を経て、プロレスデビューをし、総合格闘技の選手としての活動も同時並行して行なう。レスリング技術も然ることながら、日本人離れしたパワーから繰り出される打撃は非常に強力で、外国人のヘビー級選手であってもマットに沈めるほどの威力を持つ。また、リアルビーストと呼ばれるほどの肉体で相手を締め上げる袈裟固めなどの技を得意とする。2000年に「霊長類最強の男」と謳われたマーク・ケアーを下し、2003年にはPRIDEヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルに敗れはしたものの、フックでぐらつかせ、ヒョードルの日本での試合で初めて危ない場面を作った。2004年は、ボブ・サップとの「野獣対決」を制した事から『リアルビースト』と呼ばれた。見事なタックルからの打撃や寝技、またヒョードルをぐらつかせるほどの重い打撃にも定評がある。
このような数々の強豪外国人と対戦した実績から、ファンの間からは日本人ヘビー級の最有力選手と見なされていたが、本来全盛期となるべき時期に、怪我や猪木事務所の方針もあり、総合において満足な試合数を重ねることが出来なかった。そのためもあってかミルコ・クロコップとの初対戦時のように単調なタックルしかせず、膝蹴りでTKO負けを喫するという、彼らしくない初歩的なミスが目立つ試合をしてしまうことも見られた。プロレスに参戦せずに、総合一本に絞っていれば、また違うキャリア展開も見られたことが予想できるだけにそのロスは日本の総合格闘技界にとっても大きかったのでは無いかといわれている。
しかし2006年には、吉田秀彦も歯が立たなかった強豪のジェームス・トンプソンを得意の寝技ではなく、打撃でノックダウンさせるなど、海外のトップファイターと互角以上に渡り合える数少ない日本人ヘビー級総合格闘家として総合ファンからは期待され続けている。
[編集] 略歴
日本大学在学中に1989年より、レスリングで全日本学生選手権4連覇を成し遂げる。1993年に大学を卒業してからは新日本プロレス職員としてアトランタ五輪予選に挑戦したが敗退し、全日本選手権2度優勝の実績を残してアマチュア・レスリングは引退。
1996年に新日本プロレス所属のプロレスラーになる。やがて総合格闘技へ進出するため、新日本プロレス退団。一時は前田日明のリングスへの参戦に傾いていたが、アントニオ猪木が経営する猪木事務所に所属。2000年のPRIDE GP 2000開幕戦で総合格闘技のデビューを飾る。以後、PRIDE、Dynamite!!、猪木祭、K-1 ROMANEX、Legendなどの総合格闘技イベントの試合と新日本プロレスでのプロレスを並行して行なった。人気選手となった2001年には、サントリーの缶コーヒーBOSSコーヒーのテレビCMにアントニオ猪木と共に出演したり、アニメ映画『デ・ジ・キャラット』に声優として出演する多彩な活動をした。
2001年4月9日にはスコット・ノートンを下してIWGP世界ヘビー級選手権を獲得。2005年4月に永田裕志、中西学、ケンドー・カシンとアマレス軍団「チーム・ジャパン(TJ軍)」を結成している。
2006年2月1日をもって猪木事務所から独立し、株式会社藤田事務所所属となる。
[編集] プロレスでの活動・評価
総合格闘技を行なうまでの新日本プロレスでの藤田の扱いは前座レスラーだったが、PRIDEでの活躍を経た後は扱いが一変し、2001年に新日本プロレスの第29代のIWGPヘビー級王座を獲得(ただしこの試合では、藤田のスリーパーで落ちているはずのノートンが、レフェリーのゴング要請後、いつまでも腕を放そうとしない藤田の膝を右手で優しく揉みしだくシーンをテレビ中継で放映され、「ノートンのモミモミ事件」として話題となる)し、トップレスラーに登りつめる。IWGPのベルトはその後も2004年6月棚橋弘至、2005年7月天山広吉を下しIWGPのベルトを計3度その腰に巻いた。しかし、リングに上がるのはビッグマッチ中心でほとんど巡業には参加しない事を蝶野正洋などが苦言を呈することもある。
また、対戦相手に勝つことだけを重視した、プロレスというよりは総合格闘技的なファイトスタイルや、プロレスに対してのモチベーションの低さを感じさせる態度はファンも感情移入しづらいため、藤田を否定するプロレスファンも多いことは事実である。
2006年1月4日の、新日本プロレス東京ドーム大会のメインイベントでIWGPヘビー級タイトルへの挑戦が決定していたが、直前の12月になり何の説明もないまま「試合には出られない」としてドーム大会への参加をキャンセルし、ファンや関係者から非難を浴びた。猪木が新日本プロレスの株をユークスに売却し、新日本と猪木事務所との資本関係がなくなったためだと言われている。
[編集] 主な戦歴
- 1996年11月1日 新日本プロレスで永田裕志を相手にデビュー。
- 2000年1月30日 PRIDE GP 2000開幕戦にてハンス・ナイマンに激勝。
- 2000年5月2日 PRIDE GP 2000にて当時「ヒト科最強」と言われたマーク・ケアーに圧倒的判定勝ち。
- 2000年5月2日 PRIDE GP 2000にてマーク・コールマン相手にセコンドタオル投入によるTKO負け(棄権)。
- 2000年8月27日 PRIDE.10にて、ケン・シャムロック相手にTKO勝ち。
- 2000年12月23日 PRIDE.12でギルバート・アイブル相手に2R判定勝ち。
- 2001年5月27日 PRIDE.14 にて高山善廣に2RTKO勝ち。
- 2001年8月19日 K-1 ANDY MEMORIAL 2001にて、ミルコ・クロコップに流血によるTKO負け。
- 2002年12月31日 INOKI BOM-BA-YE 2002にてミルコ・クロコップに判定負け。
- 2003年5月2日 新日本プロレス「ULTIMATE CRUSH」にて中西学にTKO勝ち。
- 2003年6月8日 PRIDE.26でエメリヤーエンコ・ヒョードルに惜敗。
- 2003年12月31日 INOKI BOM-BA-YE 2003にてイマム・メイフィールドに勝利。
- 2004年5月22日 K-1 ROMANEXでボブ・サップに勝利。
- 2004年12月31日 K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!にて、カラム・イブラヒムにKO勝利。
- 2006年5月5日のPRIDE無差別級トーナメントでジェームス・トンプソンと対戦。接戦の末、大逆転勝利した。
- 2006年7月1日 PRIDE無差別級トーナメント2回戦でヴァンダレイ・シウバと対戦するも、終始打撃で圧倒され惨敗。
- 2006年12月31日 PRIDE男祭りでエルダリ・クルタニーゼに1RKO勝利。
- 2007年4月8日の『PRIDE.34』でジェフ・モンソンと対戦予定。
[編集] 獲得タイトル
- 第29、38、43代IWGPヘビー級王座
- 全日本学生選手権(4連覇、1989年ー)
- 全日本選手権