赤線
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赤線 (あかせん)
- 日本で1958年以前に公然と売春が行われていた地域の俗称。(後述)(非合法で売春が行われていた地域の俗称は青線)
- 法定外公共物である里道の通称。赤道(あかどう)、赤地(あかち)ともいう。(法定外公共物である水路の通称は青線、青道、青地)
赤線 (あかせん) は、GHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間に、公然と売春が行われていた地域である。
GHQは日本の民主化改革の一環として、それまでの公娼制度(貸座敷・娼妓)を否定し、遊廓を廃止した。女性の自由意志による売春自体は禁止できないとしても、女性を前借金で拘束する人身売買を禁止しようとしたものである。
東京では吉原、新宿二丁目などの貸座敷や、玉の井(東京都墨田区東向島)、鳩の街(東京都墨田区東向島)などの銘酒屋の看板を変え、風俗営業法のカフェーという名目で営業許可を取ることになった。(大阪では料亭など、地域によって異なる)
戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であるという(英語のRed light districtが語源という説もある[1])。終戦後のカストリ雑誌などでは、特飲街(特殊飲食店街の略)という表現が用いられており、赤線という言葉が一般的になったのは、マスコミで売春防止法が盛んに議論されるようになった1950年代以降と考えられる。
東京の場合、カフェーらしくするため、1階にはダンスホールやカウンターなどが造られた。働く女性(女給)は2階の部屋に間借りをしていたが、ここが営業場所も兼ねていた。女性たちは店頭に並び、道行く客に声をかけて店に誘っており、風紀上、目に余る状態になっていたことは事実である。
売春防止法の施行後、それまで赤線内で営業していた店舗は、バーやスナックなどの飲食店に転向するもの、旅館や料亭になるもの、ラブホテルや映画館になるもの、アパートや堅気の下宿屋になるもの、密かに風俗営業を続けるものなど、さまざまであった。
赤線を描いた小説には吉行淳之介「驟雨」「原色の街」、五木寛之「青春の門」、映画には溝口健二監督「赤線地帯」、川島雄三監督「洲崎パラダイス 赤信号」などがある。
なお、風俗営業法の許可を取らず、保健所から飲食店の許可を得ただけで同様の営業を行っていたものがあり、こちらは青線と呼ばれた。東京では新宿歌舞伎町が有名であった。 (その一部は現在の新宿ゴールデン街である)