RCサクセション
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RCサクセション(アールシーサクセション、RC SUCCESSION)は、日本のロックバンド。
バンド名の由来は、中学時代のユニット名が「クローバー」であり、高校入学後、再結成したため「リメインダー・オブ・クローバー」(クローバーの残党)とした。その後、さらにその続きのバンドという事で、「サクセション」を付け足し、 「リメインダー・オブ・クローバー・サクセション」(クローバーの残党の続き)では、言いづらいため「RCサクセション」と短縮した。 「ある日作成しよう」をもじった言葉遊びという説もあるが、これはテレビ番組で清志郎自ら語っていたため広まったものと考えられる。その他バンド名に関しては諸説あり。
結成時のメンバーは、忌野清志郎、破廉ケンチ(はれんけんち)、小林和生、のほかに、デビュー前には、俳優の三浦友和もパーカッションで参加していた。
「青い森」「渋谷ジァン・ジァン」などのライヴハウスで、古井戸・(仲井戸麗市)・(加奈崎芳太郎)、泉谷しげるなどと親交を深める。
RCサクセションに影響を受けたミュージシャンは非常に多く、80年代後半におけるバンドブームの最大の火付け役と言っても過言ではない。忌野がオーティス・レディングの言葉を日本語にして呼びかけた「愛しあってるかい?」は一世を風靡した。
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[編集] 来歴
- 1970年、幼馴染だった忌野清志郎(ヴォーカル、ギター)、小林和生(リンコ・ワッショーになったり、リンコ・ワッショになったりする、初期は林小和生、1976年ごろは淋呼和生になってたりした。)(ベース)、破廉ケンチ(リードギター)のアコースティック・トリオとしてデビュー。デビューシングル『宝くじは買わない』はバックに伊勢田トリオというグループの演奏が収録されているが、これは当時のマネージャーであった金田氏が連れてきた。この頃はジャズ喫茶でザ・ゴールデン・カップス等と一緒に演奏していたり、フォーク喫茶「青い森」で泉谷しげるやフォーク・デュオ古井戸らと演奏していた。
- 1972年3枚目のシングル『ぼくの好きな先生』がヒット。その後しばらくはヒットには恵まれず。1stアルバム『初期のRCサクセション』を出すが、レコードの音源には勝手なアレンジがほどこされていた為に業界への不信感が増す。 その為に2ndから自分たちの演奏を主体としたレコード作りを始める。
- 1973年同じ事務所にいた井上陽水の3rdアルバム『氷の世界』の中の『帰れない二人』(シングル『心もよう』のB面にもなる)と『まちぼうけ』を陽水と清志郎が共作(作詞・作曲)し、このアルバムの大ヒットにより当時600万円の印税が入り、清志郎は楽器をかなりたくさん買ったらしい。
- 1974年頃同じ事務所にいた井上陽水が、フリープロデュ―サーのO氏が作った独立事務所「りぼん」に移籍し、O氏の子飼いだったRCは、独立工作に失敗して、干されてしまう。このころに、3枚目のアルバム『シングルマン』を事務所(ホリプロダクション)に秘密裡に録音する。しかし、事務所(ホリプロダクション)からの移籍トラブルにより、1年間「お蔵入り」になってしまう。この頃から音楽スタイルが、彼らが好きなソウル・ミュージックとロックンロールに変化し、清志郎がピアノやエレキギターをやったり、ケンチがエレキギターになり、リンコはウッドベース(弦楽器)にベースアンプをつけていた。ヘルパーとして、ドラマーの鈴木ウータン正三が、サポートの形で参加。
- 1975年仕事がほとんどなくなり、活動休止状態になる。
- 1976年事務所をホリプロダクションから「りぼん」へ、レコード会社も東芝音工(現東芝EMI)からポリドール(現ユニバーサルミュージック)に移籍して、1月に3年1カ月ぶりのシングル『スローバラード』、4月にこれも3年4ヶ月ぶりの3枚目のアルバム『シングルマン』を、10月にはキティレーベル(後のキティレコード)に移籍してシングル『わかってもらえるさ』を発売するものの、すぐにレコードは廃盤となる。
- 『シングルマン』では契約上、クレジットされなかったが、「タワー・オブ・パワー」やミッキー吉野、柴田義也らが参加していた。また、10月発売の『わかってもらえるさ』ではメンバーの破廉ケンチがクレジットされているものの、ケンチはノイローゼでギターが弾けない状態になり、ライブもうなだれた状態だったために、実際のメンバーは清志郎とリンコの二人だけだった。(ギターは清志郎、ベースはリンコ)
- この頃の仕事は井上陽水や「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」、「カルメン・マキ&OZ」、矢沢永吉らのライブの前座をやっていた。この頃発生した有名な事件が「矢沢B吉事件」である。清志郎がMCで「矢沢B吉でーす。永ちゃん、いま楽屋でクソしてまーす」と絶叫。客席(矢沢信者)から怒轟を食らっても歌っていたそうだ。
ヘルパーも代わる代わる入れ替えで演奏し、その中には後のメンバーになる柴田義也(ゴンタ2号のちにGee2wo、その後G2WOに改名)(キーボード)や柴田の国立音楽大学の同級生でジャズピアニストの佐山雅弘(のちのセクシー佐山)(キーボード)や富岡グリコ(ドラム)やフォークシンガーの生田敬太郎(ギター)などが参加していた。また、清志郎は「栗原清志とオールスターズ」を結成し、(メンバーには後のメンバーとなる、新井田耕造(現新井田耕三)(ドラム)や柴田義也(ゴンタ2号 のちにGee2wo、その後G2WOに改名)(キーボード)、後にバックバンドの生活向上委員会(後にブルーディ・ホーンズ)のリーダーでもアリ、柴田と佐山の国立音楽大学先輩である、梅津和時(サックス)が参加していた。 また日野高の同級生である阿部昇(ギター)が居るときは、アベスと名乗っていた。 またリンコはフォークデュオ古井戸のバックをやりつつも彼が卒倒した、ジャズを極める為に大学でコントラバスを勉強していた。
- 1977年破廉ケンチが脱退。半ばリタイヤ状態に。そして「久保田真琴と夕焼け楽団」にいた、ドラマーの土井耕太郎が1年だけのの契約で加入し、「カルメン・マキ&OZ」にいた春日博文(ギター)も加入。
- 1978年頃よりメンバーの入れ替えをしながらロックバンドとしてライヴハウスでの活動を開始。同時期フォーク・デュオ「古井戸」から仲井戸麗市(ギター)、杉真理率いるマリ・アンド・ストライプスにいた新井田耕造(現新井田耕三)(ドラム)が参加したが、春日が渡米の為に脱退。
- 1979年小川銀次(ギター)が一時参加。7月に3年8ヶ月ぶりのシングル『ステップ!』を発売し、再デビューする。このシングルもスタジオミュージシャンの演奏になっている。このころに、音楽評論家の吉見祐子らが3rdアルバム『シングルマン』の再発売を懇願するための、「シングルマン再発委員会」が発足され、同会の願いが叶い、限定で発売される。
- 1980年小川銀次が脱退し、入れ替わりにバックミュージシャンのゴンタ2号(のちにGee2wo、その後G2WOに改名) (キーボード)を加えた5人編成になる。バックには梅津和時(サックス)がリーダーで、片山広明(サックス)らがメンバーの生活向上委員会(後にブルーディ・ホーンズ)がバックバンドとして参加した。
この頃にヒットした『雨あがりの夜空に』『トランジスタ・ラジオ』等後に日本のロック・クラシックと言われるヒットシングルを連発。パンク・ロック的なスピード感とR&Bに影響を受けた楽曲、グラムロックやKISSをヒントにドギツいメイクでのステージが話題になる。前年、限定再発売をしていた『シングルマン』が再発売される。
- 1982年レコード会社をロンドンレコードに移籍。
- 1984年ロンドンレコードの日本法人が成績不振の為に解散し、ロンドンレコードはポリドールレコード(現ユニバーサルミュージック)に吸収される。
ロンドンレコード解散により古巣の東芝EMIに移籍。しかし事務所がミュージシャン当人たちの許可なく、勝手にベスト盤『EPLP2』と『MIX&MIXER』を発売した。 だが、「ミュージシャン未公認」のNEWSレコードからベスト盤『EPLP2』と『MIX&MIXER』を発売された事にメンバーは激怒し、アルバム『FEEL SO BAD』の曲の中で当時の事務所(りぼん)の杜撰な著作権管理や経営姿勢などの行為を批判した。 ライブでは当時NEWSレコードの幹部だった、フォークシンガーの山本コータローや松山千春を猛烈に批判し、メンバーが「(NEWSから出た)非公認盤を買わないように」と言っていた。(ちなみに札幌のライブでは、清志郎が北海道出身の千春の悪口を言っていた) その為にすぐに廃盤となる
- 1985年「りぼん」から独立して、「うむ」を設立。この年仲井戸麗市がソロアルバムを出す。
- 1987年忌野がソロアルバム発表。その頃よりバンド自体の活動は停滞気味に。
- 1988年反戦・反核をテーマにしたカバーアルバム『COVERS』(カバーズ)とシングル『ラブミー・テンダー』を製作するも当時東芝EMIの親会社の東芝が原発の機器を電力会社に提供したために、東芝から圧力がかかり急遽発売中止になる。東芝EMIは全国紙(毎日、朝日、読売)で「素晴らしすぎて発売できません」との広告を打たされる。後にレコード会社を古巣キティレコードに変えて発売されたこのアルバムは、話題性もあり皮肉にも初のチャート1位を獲得した。アルバム『COVERS』の発売中止から、2ヵ月後の8月15日にライブを行い、12月に8月15日のライブを収録した、アルバム『コブラの悩み』で「発売中止騒動の時のマスコミの対応」や「東芝」を痛烈に批判した。
- 1990年(以前から一番年下のG2WOが年上の他のメンバーに対して、口出しした為に煙たがれ、スキーばかりやり参加をしなかった)G2WOを脱退させ、『Baby a go go』の収録中に清志郎が新井田耕造に相談もなく、春日博文にドラムをやらせたために、激怒した新井田が脱退し、バックにBOWWOWの厚見玲がキーボードを担当。
忌野、仲井戸、小林の3人でラストオリジナルアルバム『Baby a go go』を発表。このアルバムは高い評価を得るが、12月25日の日本武道館ライヴを最後に活動を停止した。その後RC名義の活動はないものの、ライブでたびたび忌野と仲井戸は競演しRC時代の楽曲でパフォーマンスをしている。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] シングル
- 宝くじは買わない(1970年3月)
- 涙でいっぱい(1970年12月)
- ぼくの好きな先生(1972年2月)
- キミかわいいね(1972年7月)
- 三番目に大事なもの(1972年12月)
- スローバラード(1976年1月)
- わかってもらえるさ(1976年10月)
- ステップ!(1979年7月)
- 雨あがりの夜空に(1980年1月)
- ボスしけてるぜ(1980年5月)
- トランジスタ・ラジオ(1980年10月)
- サマーツアー(1982年6月)
- つ・き・あ・い・た・い(1982年12月)
- Oh! Baby(1983年6月)
- ベイビー!逃げるんだ。(1983年11月)
- 不思議(1984年7月)
- すべてはALRIGHT(1985年4月)
- スカイ・パイロット(1985年11月)
- NAUGHTY BOY(1986年4月)
- ノーティ・ボーイ(1988年3月)
- ラブ・ミー・テンダー(1988年8月)
- I LIKE YOU(1990年9月)
- スローバラード (RE-MIXED VERSION) (1991年2月)
[編集] アルバム
- 初期のRCサクセション(1972年2月)
- 楽しい夕に(1972年12月)
- シングル・マン(1976年4月)
- ラプソディー(1980年6月) - 久保講堂でのライブにスタジオ作業を加え完成されたアルバム。後に「ネイキッド」も発売
- PLEASE(1980年12月)
- BLUE(1981年11月)
- Yeahhhhhh...at武道館(1982年4月)
- BEAT POPS(1982年10月)
- THE DAY OF R&B(1982年12月)- サム・ムーア、チャック・ベリーとの共演盤
- OK(1983年7月)
- THE KING OF LIVE(1983年)
- FEEL SO BAD(1984年11月)
- HEART ACE(1985年11月)
- THE TEARS OF A CLOWN(1986年10月)
- MARVY(1988年2月)
- COVERS(1988年8月)
- コブラの悩み(1988年12月)
- BABY A GO GO(1990年9月)
- RHAPSODY NAKED (2005年10月) - スタジオで音の録りなおしなどを含まないかたちでリリースされた完全版
[編集] 主な編集盤
- EPLP(1981年6月)
- ハード・フォーク・サクセション(1982年3月)
- EPLP-2(1984年7月)
- BEST OF RC SUCCESSION 1970-1980(1990年11月)
- BEST OF RC SUCCESSION 1981-1990(1990年11月)
- ソウルメイツ(1995年9月)
- SUPER BEST(1998年12月)
- ゴールデン☆ベスト(ユニバーサル編)(2002年6月)
- Wonderful Days 1970-80 (2005年6月)
- Greatful Days 1981-90 (2005年6月)
[編集] RCサクセション、忌野清志郎、仲井戸麗市に関する主な文献
- 生卵(忌野清志郎デビュー25周年記念)
- GOTTA!忌野清志郎(忌野清志郎伝)
- 遊びじゃないんだっ!(RCサクセション20周年記念)
- 愛しあってるかい?!
- 十年ゴム消し(忌野清志郎による私小説風エッセイ)
- だんだんわかった(仲井戸麗市によるエッセイ)
ほか多数