アナトリー・ヴェデルニコフ
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アナトリー・ヴェデルニコフ(Anatoly Vedernikov,Анатори Бэдэрников, 1920年5月5日-1993年7月29日)は、ロシアのみならず、20世紀を代表するピアニストである。ピアニストの中においても様々なグループわけがなされるが、その中のロシア・ピアニズム、ネイガウス派の代表格である。
目次 |
[編集] ヴェデルニコフの略歴
- 1920年5月5日 ハルビンにて誕生。
- 1926年頃 ピアノを習い始める。ヴェラ・ディロン女史に師事。
- 1933年 ハルビンの高等音楽院を首席で卒業。
- 1935年 初来日。東京に1年程滞在。
- 1936年 ロシア(ソ連)に移住。モスクワ音楽院に入学し、ゲンリヒ・ネイガウスに師事。直後、家族を粛清の波が襲い、父親は銃殺刑、母親は強制収容所送りとなってしまう。師であるネイガウスの計らいで何とか逮捕を免れる。
- 1940年 初の公開演奏会。
- 1959年 グネーシン音楽院で後進の指導にあたるようになる。
- 1980年 モスクワ音楽院で指導するようになる。
- 1985年 モスクワ音楽院の教授に任命。
- 1993年3月10日 ピンネベルクにおける最後のリサイタル。
- 1993年7月29日 死去。
[編集] 波乱に満ちた生涯
ヴェデルニコフの生涯は波乱に満ちている。青春盛りの時に、両親と離れ離れになったこともそうだし、ヴェデルニコフが自身の信念に忠実に行動したためあまり体制に迎合せず当局に睨まれており、海外での演奏活動が非常に制限されていた事(つまり、ヴェデルニコフの類稀なる能力が広く発信できなかった事。これはヴェデルニコフがロシア以外では存在すら殆ど知られていないことを意味する)も理由の一つである。このため、ヴェデルニコフの映像は殆ど現存しない。当人が自分にはレコードがある、と言わしめたとおり音源しか資料が殆ど存在しない。
[編集] 1980年代以降
1980年代に入ると、ミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカという名の改革によって、ロシア(ソ連)以外での演奏活動も出来るようになった。ソ連にとってもペレストロイカは大変革であったが、ヴェデルニコフにとっても彼の人生における大変革でもあった。それまで世界に、特に西側諸国に存在すら謎に包まれていたが、晴れて世界に存在を認められたのである。西側諸国での演奏も好評を博した。そういう意味では、ヴェデルニコフは、世界全体からすれば遅咲きのピアニストと見るべきかもしれない。
[編集] ヴェデルニコフの演奏
ヴェデルニコフの演奏を論じるにあたって、まず筆頭格に上げられるのは、レパートリーの広さである。バロックからロマン派、印象派、現代音楽にいたるまで全てに精通していた。また、ヴェデルニコフの演奏中を撮影した写真からも分かるとおり、指の動きが非常に速い。これは、彼の運指が非常に優れていたことを物語っているし、事実、ドビュッシーの『ピアノのために トッカータ』の音源からもそのことが分かる。また、ピアノのペダルの使い方も秀逸であり、一つ一つの音が透き通って聞こえる。これは、和音を弾いた瞬間にペダルを上げてカットし、すぐに素早く後踏みする技術に長けていたのである。