近代音楽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() |
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
近代音楽(きんだいおんがく)は、西洋のクラシック音楽においておおよそ20世紀初頭(あるいは19世紀末)頃から第二次世界大戦の終わり頃までの音楽を指す。
それ以降の音楽は現代音楽と呼ばれるが、本稿で扱う近代音楽に対しての現代音楽との境界は現在も議論が続き、第一次世界大戦後、第二次世界大戦後、1950年などいくつかの意見がある。また、このような分類をしないで1900年以降を全てまとめて現代音楽とするという考えもある。本稿では冒頭の通り、20世紀初頭から第二次世界大戦の終わりまでを近代音楽と定義する。
目次 |
[編集] 概論(ヨーロッパ編)
[編集] ドイツ語圏
[編集] 後期ロマン派の延長から無調音楽へ
20世紀初頭から第一次世界大戦までは、後期ロマン派の延長上にある音楽がドイツ語圏とくにオーストリアのウィーンを中心に多く作られた。マーラーやリヒャルト・シュトラウスなどがその代表と言える。またツェムリンスキーから新ウィーン楽派の初期にかけてが、この後期ロマン派の最後期と見てよい。シェーンベルクの「浄夜」「ペレアスとメリザンド」「グレの歌」、ベルクの「ピアノソナタ」、ヴェーベルンの「夏草の中で」などがそれにあたる。
シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンはそれらの初期作品の後、徐々に調性を回避し無調音楽と呼ばれる作風へ至った。また後にはそれを組織化する手段として十二音技法を生み出し、以後この作風を各人が終生用いた。
[編集] その他のドイツ語圏の動向
その他としてはカール・オルフのオスティナート語法、パウル・ヒンデミットやコルンゴルト、カール・アマデウス・ハルトマンなどが挙げられる。レーガーの後の世代も作曲活動は好調であり、ワルター・ニーマン、マックス・トラップ、ユリウス・ヴァイスマンなどの作曲家たちも調性語法を守り、健在であった。
[編集] フランスおよびフランス語圏
[編集] 印象主義、原始主義の音楽とロシア・バレエ団
フランスではサン=サーンス、フォーレ、ショーソンといった19世紀後半より活躍した作曲家たちが、ワーグナーの影響を受けながらもフランス独特の音楽様式を確立していた。その様式のエスプリ(精神)は保ちながらも、音楽的には機能和声の放棄というまったく新しい語法を開拓したのがクロード・ドビュッシーであり、モーリス・ラヴェルと共に美術の印象派(印象主義)になぞらえて「印象主義の音楽」と呼ばれた。実際は、ラヴェルの方が印象主義を先取りしたと言われている。どちらが先か、という問題に対しては、関係項目(ラヴェル・ドビュッシー・印象派)が詳しいので、参照のこと。彼らは感覚的ではあるが高次倍音を取り込んだ新たな和声や、聴き手に視覚的な印象を想起させる色彩的で遠近法的な管弦楽法を生み出した。またドビュッシーによってはじめて多用された全音音階は、調性感覚を薄める音楽語法の一つとして注目され、以後多くの作曲家が追随した。(全音音階は部分的な使用についてはグリンカなどにも先例があるが、繰り返し使用し一般に認知されたのはドビュッシーからである。)
またこの頃ディアギレフが主宰するロシア・バレエ団がパリで活躍し、多くの作曲家にバレエ音楽を委嘱した。前述のドビュッシーやラヴェルも、彼らの代表作の1つとなるような作品を書き上げたが、このバレエ団によって世にその名を轟かせたのはなんといっても、この時代はフランスで活動したロシア人ストラヴィンスキーだろう。初期三大バレエと呼ばれる「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」を続けて発表するが、3作目の「春の祭典」はあまりにショッキングな作風のため、会場のシャンゼリゼ劇場は演奏中から乱闘騒ぎを起こし、空前絶後の混乱に陥った(ただしパリ市民の音楽界での乱闘騒ぎは、過去にワーグナーの「タンホイザー」パリ初演などの例がある)。しかし翌年演奏会形式で再演したときには好評を持って迎え入れられ、新たな音楽の潮流として世に認められた。
[編集] 新古典主義
新古典主義はフランスだけの現象ではないが、主要な作曲家にフランスにかかわりのある人物が多いのでフランスの項で扱う。
ストラヴィンスキーは三大バレエ音楽の後、この新古典主義へと作風を転換した。またフランス六人組と呼ばれる作曲家およびその周辺の同世代の作曲家(イベールやルーセルなど)は、年長のサティを旗印とし(ただし後に一部は絶交)、美術家のピカソや詩人コクトーらとも関わりながら音楽活動を展開した。他にスペイン人だがフランスに関わりの深いファリャの後期作品(例えば「クラウザン協奏曲」)などにも新古典主義の影響が見られる。
[編集] 木管楽器の音楽とオルガン音楽の発展
フランス楽派と呼ばれる演奏流儀が、パリ音楽院の器楽科を中心として20世紀初頭ごろより勃興した。特に木管楽器は楽器の改良と共に奏者の技術も目覚しく発展し、それに伴い多くのフランスの作曲家が、日々進歩する楽器の性能を駆使しつつ多くの新しい曲を生み出した。木管楽器奏者のソロや室内楽のレパートリーには、現在もなおこの頃のフランス近代音楽が多い。
またオルガン音楽もこの頃特に盛んであった。オルガンは主に教会のミサで演奏されることが多く(フランスはカトリック国であり、ほとんどの教会はカトリックのしきたりに沿ってミサを行う)、司祭をはじめ会場の動きや時間配分に合わせて即興演奏を行う必要がある。よってオルガンには即興演奏が付きものなのだが、19世紀のフランク以来の流儀を引き継いで、フランスのオルガン音楽は即興のみならず目覚しい発展を遂げた。またもちろん優れた即興を書き留めてそれを元に作品を練り上げることもあった。この分野ではデュプレをはじめ、後述のトゥルヌミールやジャン・アラン、さらにヴィドール、デュリュフレなどが挙げられる。メシアンもオルガニストとして活躍し、生涯の広範囲にわたって多くの優れたオルガン音楽を作曲している。
[編集] ジュヌ・フランス
フランス六人組よりもさらに若い世代として、ジュヌ・フランス(若きフランス)と呼ばれる作曲家グループが結成された。主要なメンバーはメシアン、デュティユー、ジョリヴェ。彼らはその活動の最初期において、フランス近代音楽の潮流を引き継ぎつつも、調性音楽からの乖離を試みた。しかし新ウィーン楽派のような、調性を完全否定する無調音楽へは至っていない。その他、オルガン音楽の分野で有名なトゥルヌミール、ジュアン・アランらもメンバーであった。ジュアン・アランはオルガニスト・マリー=クレール・アランの兄であり、彼自身もオルガン曲を中心に活発な作曲活動をしていたが、第二次世界大戦で戦死した。
特筆すべきは、メシアンが1930年代に本格的な作曲活動を開始したばかりの頃、同時期に生まれたばかりの新しい電子楽器オンド・マルトノを複数用いて作曲していることが挙げられる。委嘱による機会ではあったが、その中の1曲「美しき水の祭典」は、その後彼が第二次世界大戦で捕虜となった際に書かれて代表作の1つとなった「世の終わりのための四重奏曲」に転用している。ジョリヴェも戦後まもなく「オンド・マルトノ協奏曲」を作曲した。
[編集] イタリア
オペラにおいてはマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の大成功(1890年)を受け、ヴェリズモ・オペラの流行がおきた。同作およびレオンカヴァッロの「道化師」の2作がその傾向の代表作とされる。彼らと同世代に属するプッチーニはもともとヴェリズモの影響を受けつつ後期ロマン派の作風から出発したが、20世紀に入ると全音音階や激しい不協和音などを試みるなど、部分的には同時代の先端の技法を取り入れていた。
イタリアの音楽界は圧倒的にオペラ中心であり、演奏会用の管弦楽や室内楽を積極的に書く作曲家はなかなか現れなかったが、舞台用交響作品を中心に活動する作曲家としてレスピーギが出現した。中でも「ローマの松」において、実際の鳥の声を録音したものを作品中に再生して使用する試みは注目に値する。レスピーギはまた古代旋法の復興にも熱心であり、この点では同時代のフランス音楽とも共通する語法を探求したと言える。
前衛的な活動としてはダラピッコラによって、イタリアにおける最初期の十二音技法の試行が挙げられる。実際は同時期にシェルシによっても同様の試みが行われていたが、シェルシにとって十二音技法は自己の語法とあまりにかけ離れており、結果精神的破綻を起こして一種の精神病となってしまう。以後別の作風に転向するが(詳しくはジャチント・シェルシの項を参照)彼の音楽は1980年代になるまで世界的には認知されなかった。
[編集] 北欧と中欧・東欧
19世紀の音楽はドイツ語圏が大きな中心となっていた。それに対していわゆる周辺国の作曲家が独自の民族的な音楽語法を探索する動きもすでに起こっていたが、20世紀以降に新たな展開を見せた。
日本においても伊福部昭などにより民族主義が試みられているが、これは概論(日本編)において記す。(この項未執筆)
[編集] 北欧
北欧ではフィンランドのシベリウスとデンマークのカール・ニールセンとがまず筆頭に挙げられる。シベリウスは帝政ロシア支配下のフィンランドで民族的な題材やメッセージをこめた音楽を多く世界に発信し、その後独自の音楽語法を発展させて、フィンランドの国民的作曲家となった。他にもアルヴェーンやステンハンマルなどがいる。またアーッレ・メリカントはフィンランドにいながらにして、世界的に見ても最も前衛的な立場を取る作曲家の1人であった。
[編集] 中欧・東欧
中欧・東欧ではまずハンガリーのバルトークとコダーイの二人が挙げられる。特にバルトークは民族的な語法から純粋な音楽現象としての作曲理論を確立させ、調性音楽における転調理論の極限までの発展と、新ウィーン楽派の十二音技法とは別の流儀での12半音階の完全組織化を試みた。
他にはチェコのマルティヌーやヤナーチェク、ポーランドのシマノフスキらが挙げられる。
[編集] ロシア(ソ連)
(この項未執筆) お
[編集] イギリス
(この項未執筆)
[編集] スペイン
(この項未執筆)
[編集] バルカン諸国
(この項未執筆)
[編集] 概論(アメリカ編)
アメリカで新しく生まれた音楽としてジャズが挙げられる。一般的にはクラシック音楽とジャズは切り離して語られるものであり、詳細はジャズの項に譲るが、このジャズ(最初期のディキシーランド・ジャズやスウィング・ジャズ)をたくみに取り入れた作曲家としてガーシュウィンが挙げられる。
ガーシュウィンはジャズを取り入れた「ラプソディー・イン・ブルー」によって一躍有名となり、後には「パリのアメリカ人」や歌劇「ポーギーとベス」やミュージカルなどを書くが、多忙が祟って39歳の若さで病死した。
アイヴズ、エリオット・カーター、ヴァレーズなど戦前の前衛音楽について (この項書きかけ)
[編集] 概論(日本編)
明治維新以降の西洋音楽の受容から民族主義、戦時中の動向について(この項書きかけ)
日本では明治12(1879)年に音楽取調掛が設けられ、音楽研究および西洋音楽をベースとした音楽教育(唱歌教育)の形成の取り組みが始められた。明治14(1881)年に『小学唱歌集』初編の出版届け出がなされる。
音楽取調掛を率いたのは伊沢修二だが、ほかに神津仙三郎(専三郎とも)、山勢松韻、内田彌一、芝葛鎮(ふじつね)、上眞行(うえ・さねみち)らの名を挙げることができる。後に近代的な日本美術の形成に力を尽くすことになる岡倉覚三(岡倉天心)は、音楽取調掛の最初期に通訳としてかかわった。
さらに、米国の音楽教育家であるメーソンの存在を忘れるわけにはいかない。メーソンは明治13(1880)年の春に来日し、明治15(1882)年の夏まで滞日し、明治国家の西洋音楽受容に一定の役割を果たしたと言える。メーソン離日後、しばらく後任はいなかった。明治16(1883)年6月からは、かねてより海軍軍楽隊教師として滞日していたエッケルト(ドイツ)が、音楽取調掛を指導するようになる。日本のドイツ音楽偏重志向はこのときから始まると言えるかもしれない。
音楽取調掛は一時音楽取調所と称されるがまたすぐに元に戻る。明治20(1887)年には東京音楽学校に昇格。
のちに滝廉太郎がドイツへ留学し、日本人による初の西洋音楽の様式による作曲が行われる。滝が初めて世に出した曲はピアノのためのメヌエットであった。後に滝は帰国後に多くの唱歌を作曲するが、結核により夭折してしまう。
滝のあとをついで日本の洋楽シーンを牽引したのは山田耕筰である。山田はドイツに留学し日本人初のオーケストラ曲「序曲ニ長調」、ついで音詩「曼荼羅の華」、交響曲「勝鬨(かちどき)と平和」を相次いで発表する。その後指揮者としてアメリカへ渡り、また日本で初めてのオペラ「黒船」を書くなどの活動がある。
明治以降日本の洋楽シーンはドイツ偏重だったが、池内友次郎はフランスに渡り、近代フランス音楽の様式を日本に持ち込んだ。
[編集] 近代音楽の代表的な作曲家
複数の分野にまたがる作曲家を含む。
[編集] 1890年代あたり
(stub)
[編集] 1919年以前
(stub)