アブー・ムスリム
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アブー・ムスリム(アラビア語:أبو مسلم عبد الرحمن بن مسلم الخراساني, ペルシア語:ابو مسلم خراسانى, ラテン文字表記:Abu Muslim Abd al-Rahman ibn Muslim al-Khurasani、700年頃 - 755年)はアッバース革命の指導者。ホラーサーンのベフザダン(猛虎)と称せられた。アッバース朝建国の最大の功臣であったが、のちに粛清される。
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[編集] 生涯
[編集] 前半生
アブー・ムスリムの素性は知られておらず、その名前も本名かどうかは不明である。一説によれば元はシーア派に属したともいわれ、ペルシア系の解放奴隷であったとも伝えられる。ただ彼がイラク南部の都市クーファで育ち、マッカでアッバース家の当主イブラーヒーム・イブン・ムハンマドと出会い、その弟アブー・アル・アッバースと交友を結んだことは確かと見られる。
当時、ウマイヤ朝の支配はカリフ位継承をめぐる王朝内の内紛やシーア派・ハワーリジュ派の絶えざる反体制運動、人頭税(ジズヤ)の徴収に不満を抱く改宗民(マワーリー)の反乱などによって危機に陥りつつあった。743年に第10代カリフのヒシャームが死去するとこの動きが激化し、各地で中央政権に対する蜂起が相次いだ。アッバース家の一族もこうした状況に乗じて、預言者ムハンマドの叔父アッバースに連なる高貴な血統を根拠にカリフ位への権利を主張しはじめた。彼らは死海の南の小村フマイマを拠点としてイスラーム世界各地に秘密教宣員(ダーイー)を派遣し、ウマイヤ朝への不満を煽り、反乱を組織させた。
[編集] ホラーサーンのダーイー
アブー・ムスリムもダーイーのひとりとして中央アジアのホラーサーンに派遣され、この地方でウマイヤ朝に対する反対運動を組織することになった。その頃ホラーサーンではシーア派の影響力が拡大しつつあった。とくにシーア派第4代イマーム、アリー・ザイヌルアービディーンの子で、クーファで反乱を起こして敗死したザイド・イブン・アリーの遺児ヤフヤーがホラーサーンに逃れ、この地で総督ナスル・イブン・サイヤールに殺害されたため、ザイドとヤフヤーを真のイマームと見なすザイド派の残党がホラーサーン地方一帯に数多く潜伏していた。
アブー・ムスリムはアッバース家当主のカリフ擁立という最終目的を明示せず、ただ「ふさわしい者を指導者に」というスローガンだけを掲げた。ホラーサーンのシーア派諸勢力は「ふさわしい者」というのを、預言者の嫡流であるアリー家のイマームと解し、次々にアブー・ムスリムの旗のもとに従った。ことにザイド派はウマイヤ朝に対してザイドとヤフヤーの復讐を果たせるものと考えてアブー・ムスリムの陣営に大挙して加わった。アブー・ムスリムが挙兵にあたって使用した黒旗は後にアッバース朝の象徴となるが、本来はザイドとヤフヤーの死を悼むものであったという説もある。また彼はマズダク教徒やカイサーン派などをも懐柔し、自陣営に引き込んでいる。
[編集] アッバース革命
アブー・ムスリムは747年6月9日にメルヴ近郊のサフィザーンジュ村で挙兵した。彼のもとには上記のシーア派諸勢力やイエメン系アラブ人のアズド族などに加え、多くのイラン人マワーリーが集まった。彼は翌年はじめにホラーサーンの中心都市メルヴを占領し、総督ナスル・イブン・サイヤールをニーシャープールとジュズジャーンで破ってイラン東北部の支配を確立した。
ウマイヤ朝のカリフ、マルワーン2世はシリアの反乱に対する対応に忙殺され、他の地域をかえりみる余裕がなかった。アブー・ムスリムはこれに乗じ、革命軍を西方へ派遣した。軍隊の指揮はタイイ族の武将カフタバがとり、アブー・ムスリム自身はメルヴを離れずに後方指令を出すことになった。
すでに数のうえでも質のうえでも弱体化していたウマイヤ朝軍はほとんど抵抗をせず、現地住民はむしろ革命軍をアラブ人支配からの解放者として迎えることが多かった。イラン各地の都市が続々と無血開城し、革命軍は749年にクーファを占領した。そこで突然アッバース家のアブー・アル・アッバースをカリフとする宣言が発せられ、10月30日にクーファの大モスクでアブー・アル・アッバースの即位式と忠誠の誓い(バイア)が行なわれた。革命軍の一部(とくにシーア派)はこれに驚愕・反発したが、この時点では何もすることができなかった。アブー・ムスリムはこのとき「ムハンマド家のアミール」という称号を与えられた。
マルワーン2世はイラク北部の大ザーブ河畔に1万2千の兵を集めて抵抗をはかるが、750年1月にアブドゥッラー・イブン・アリーが率いる革命軍に大敗し、エジプトで殺害された。ウマイヤ朝の都ダマスクスも4月26日に陥落し、王族のほとんどが殺害された。こうしてウマイヤ朝は滅亡し、アッバース朝の時代がはじまった。
[編集] 東方の総督
革命の成功後、アブー・ムスリムは建国の功臣として正式にホラーサーン総督に任じられ、イラン東部から中央アジアにかけての広大な地域を管掌することになった。彼はムスリムと非ムスリムを問わず、この地方に存在する様々な集団の利害を調整することに努め、ホラーサーン住民の厚い支持を受けた。当時この一帯はアッバース朝の領土というよりアブー・ムスリム個人の独立政権に近い状況であったらしい。
アッバース朝の成立と同じ750年に唐の将軍高仙芝がソグディアナに侵入し、シャーシュ(現タシケント)王を捕えた。これに対して諸国はイスラーム側に救援を要請し、ホラーサーン総督となったアブー・ムスリムは翌751年に腹心のズィヤード・イブン=サーリフを唐軍との戦いに派遣した。唐とアッバース朝の両軍は7月に天山山脈西北のタラスで衝突し、アッバース朝軍が圧勝をおさめた。このタラス河畔の戦いの勝利と、まもなく中国本土で安史の乱が勃発して唐の国力が急低下したことにより、パミール高原以西におけるイスラーム勢力の優位が確立した。
しかしアブー・ムスリムの実力と名声はアッバース一族の強い警戒をまねいた。とくにカリフ・アブー・アル=アッバースの兄アブー・ジャーファル(のちのマンスール)は早くからアブー・ムスリム粛清の進言を繰り返していた。アブー・アル・アッバース自身も次第にアブー・ムスリムへの警戒を強めていったらしい。アブー・ムスリム自身もカリフの命によってシーア派指導者のアブー・サラマやカイサーン派指導者のスライマーン・ブン・カスィールらの粛清に関わっており、自身の身辺に危険を感じたためか、できるだけホラーサーンを離れないようになった。
[編集] アブー・ムスリムの殺害
754年、イラクに上ってきたアブー・ムスリムは歴代カリフが務めるのが恒例であったマッカ大祭(イードル・アドハー)巡礼団の総指揮者となることを願い出たが、アブー・アル=アッバースはこれを退け、兄のアブー・ジャーファルを総指揮者とした。アブー・ムスリムは補佐役とされた。
巡礼からの帰途、アブー・アル=アッバースの急死が伝えられ、アブー・ジャーファルが新カリフとなってマンスールを称した。ところがマンスールの叔父でシリア総督となっていたアブドゥッラー・イブン・アリーもまたカリフを称したため、マンスールはアブー・ムスリムにアブドゥッラー討伐を命じた。アブー・ムスリムは数ヶ月にわたる戦いの末、イラク北部のニシビスでアブドゥッラーの軍を撃破した。マンスールはこれによってアブー・ムスリムの利用価値はなくなったものと判断し、彼の粛清を決定した。
アブー・ムスリムはマンスールの計画を察知して急ぎホラーサーンに帰国しようとしたが、度重なる説得によってマンスールのもとへ出向くことを了承し、クテシフォンでマンスールに謁見した。マンスールははじめ丁重にアブー・ムスリムの労をねぎらったが、巧妙に彼の剣を奪い取ると、突然アブー・ムスリムを激しく非難しはじめた。そこに武装した兵士の一団が現われ、マンスールの命令によってアブー・ムスリムを殺害した。このときアブー・ムスリムは「自分を生かしておけばあなたの敵を倒すだろう」と叫んだが、マンスールは「お前以上の敵がどこにいるものか」と応じたと伝えられる。
[編集] その死後
アブー・ムスリムの殺害はホラーサーン地方に大混乱を引き起こした。アブー・ムスリムを支持するホラーサーンの住民は彼の粛清を激しく非難し、アブー・ムスリムの側近であったとされるイラン人のスンバーズに率いられて挙兵した(スンバーズの乱)。反乱軍はイラン高原一帯を席捲したが、マンスールの派遣したアッバース朝軍によってハマダーン付近で殲滅された。
その後もホラーサーン周辺では767年のウスターズィーの乱や、776年のムカンナーの乱など、アブー・ムスリム支持者によるアッバース朝への反乱が相次いだ。こうした反乱者の多くはアブー・ムスリムの生存や再臨を唱えて人心を糾合した。とくに776年から783年までメルヴを支配したムカンナーは、アブー・ムスリムをアダムやノアの生まれ変わりで神の化身であると主張したという。
アブー・ムスリムの名は現在も中央アジアで広く知られており、タジキスタンではアブー・ムスリムがタジク人の父とされている。またイランにはアブー・ムスリムの名を取ったフットボールチームが存在する。
[編集] アブー・ムスリムの登場する作品
- アブー・アブドゥッラー・ムハンマド『アクバル・アブー・ムスリム・サーヒブ・アッダアワ』(アラビア語の小説)
- アブー・ターヒル・アッタルスースィー『アブー・ムスリム・ナーマ』(ペルシア語の小説)
- スレイマン・アルバッサーム「カリラ・ワ・ディムナ 王子たちの鏡」(クウェートの演出家による歴史劇)