ウマイヤ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウマイヤ朝(ウマイヤちょう、661年 - 750年、Umayyad 、بنو أمية)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において最終的に政権を獲得したシリア総督ムアーウィヤが、661年に自らカリフとなることにより成立した政権。都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、カリフ位がウマイヤ家の一族によって世襲されたため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフのことを「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、王族のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。
カリフ位の世襲制を採用した最初の王朝形の政権であり、ムスリムであるアラブ人による集団的な異民族支配を国家の統治原理とする一方、非アラブ人はジンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせるアラブ人至上主義を敷いた。また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。
目次 |
[編集] 年譜
- 661年 - ムアーウィヤ、カリフとなり、ダマスカスを都とする。
- 673年 - 687年まで数年に渡って、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲したが失敗。
- 680年 - 二代目カリフ後継者ヤズィード、正統カリフアリーの子フサインの勢力を制圧。後のスンニー派によるイスラムの覇権を築く。
- 697年 - 東ローマ帝国からカルタゴを奪い、北アフリカのほぼ全域を支配。
- 第二次内乱の危機を乗り越えたアブドゥルマリクの時代に全盛時代を迎える。しかし、その後、ウマイヤ家を認めないシーア派やハワーリジュ派の反乱、アラブ諸部族間の内紛などにより傾きはじめる。
- 711年 - イベリア半島のゲルマン人国家西ゴート王国を滅ぼし、西はイベリア半島から東はインド洋までの広大な地域を支配。
- 718年 - 東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを大規模艦隊と陸軍で包囲したものの敗北し、遠征軍は壊滅。
- 732年 - メロヴィング朝フランク王国とのトゥール・ポワティエ間の戦いに敗北。
- 750年 - ホラーサーン地方で勃発したアッバース革命により750年に滅亡。ヒシャームの子孫アブド・アッラフマーン1世はイベリア半島へ逃れて、後ウマイヤ朝(756年-1031年)を建国。
[編集] 歴代カリフ
- ムアーウィヤ(1世)(661年 - 680年)
- ヤズィード1世(680年 - 683年)
- ムアーウィヤ2世(683年 - 684年)
- マルワーン1世(684年 - 685年)
- アブドゥルマリク(685年 - 705年)
- ワリード1世(705年 - 715年)
- スライマーン(715年 - 717年)
- ウマル2世(717年 - 720年)
- ヤズィード2世(720年 - 724年)
- ヒシャーム(724年 - 743年)
- ワリード2世(743年 - 744年)
- ヤズィード3世(744年)
- イブラーヒーム(744年)
- マルワーン2世(744年 - 750年)
[編集] 文化
- ダマスカスの宮廷などで活躍した音楽家。
- イブン・スライジュ
- マアバド(? - 743年)
- ガリーズ
- ワリード2世(カリフ)
- マーリク・アッターイー
- イブン・アーイシャ
- ユーヌス・アルカーテブ
- イブン・アルカルビー(? - 763年) - キターブ・アルナガム(旋律の書)、キターブ・アルキヤーン(歌姫の書)の著者。
- イブン・ミスジャハ - アラブ古典音楽の整備に功。
- ハリール(? - 791年) - 音楽理論に関する著作があったと言われる(現存せず)
[編集] 関連項目
参考にしたもの
- 平凡社音楽大事典 - 西アジア項