アブー=バクル
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アブー=バクル・アル=スィッディーク( ابو بكرالصدّيق عبد الله ابن ابي قحافه عثمان بن عامر بن عمرو بن كعب بن سعد بن تيم Abū Bakr al-Ṣiddīq ‘Abd Allāh ibn Abī Quḥāfa ‘Uthmān b. ‘Āmir b. ‘Amr b. Ka‘b b.Sa‘d b. Taym, 573年-634年8月23日)は、初代正統カリフ(在位632年-634年)。預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリムとなったのひとりであり、カリフすなわち「アッラーフの使徒(ムハンマド)の代理人」( خليفة رسول الله Khalīfat Rasūl Allāh)を名乗った最初の人物である。
アラビア半島西部の都市マッカ(メッカ)に住むアラブ人のクライシュ族に属するタイム家の出身。アブー=バクルというクンヤで専ら呼ばれるが、もともとの彼の名前(イスム)はアブドゥルカアバ عبد الكعبة ‘Abd al-Ka‘ba (カアバの下僕)であったが、イスラームに改宗したときに預言者ムハンマドによってムハンマドの父の名前と同じアブドゥッラーフ عبد الله ‘Abd Allāh (アッラーフの下僕)に改めたと伝えられている。「美顔の持ち主」ゆえに「アティーク」 العتيقal-‘Atīq とあだ名され(後世には同じ単語の別の意味から「(地獄の業火から)解放された者」と解釈された)、また、最初期からのムスリムで信仰心篤く、いかなる機会や事態に陥っても信仰を疑わずムハンマドがミウラージュの奇跡を語った時も真実としてこれを信じたため、「(正しさを疑わぬ)真実を語る人」すなわちスィッディーク الصدّيق al-Ṣiddīq という尊称(ラカブ)で呼ばれる。
預言者であるムハンマドの親友で、ムハンマドの親族を除く最初の入信者であったとされる。ムハンマドによるイスラーム教の勢力拡大に貢献した。娘のアーイシャがムハンマドに嫁いだため、ムハンマドの義父にもあたる。(ただし、年齢はムハンマドより3歳程度若い。)632年、ムハンマドが死去した後、選挙(信者の合意)によって初代正統カリフに選出された。
しかし、かつてムハンマドに忠誠を従ったアラブ諸族の中には、その忠誠はムハンマドとの間で結ばれた個人的契約であるとして、アブー=バクルに忠誠をみせない勢力もあった。アブー=バクルはハーリド・イブン=アル=ワリードらの活躍によってこうした勢力を屈服させ、ムスリム共同体の分裂を阻止した(リッダ戦争)。また、イスラーム勢力拡大のためにササン朝ペルシアや東ローマ帝国と交戦したが、こうした戦争を通じてムスリム共同体の結束を強める狙いもあったと推測される。
アブー=バクルは、カリフ在位わずか二年にして病のため亡くなった。そのため、一連の征服活動は2代カリフのウマル・イブン=ハッターブに受け継がれることになった。
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