アントン・ヘーシンク
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男子 柔道 | ||
金 | 1964 | 無差別級 |
アントン・ヘーシンク(Anthonius Geesink、1934年4月6日 - )は、オランダ、ユトレヒトに生まれた、柔道指導者・元プロレスラー。グレコローマン・レスリングのオランダチャンピオン。
柔道は1947年から始める。1956年に来日し第1回世界選手権大会(東京)に参加する。日本人以外で初の世界選手権者(1961)、オリンピック金メダリスト(無差別、東京、1964)となる。
1973年、前年にジャイアント馬場が設立した全日本プロレスの中継の目玉として、日本テレビの誘いを受け、全日本に入団しプロレスラーとなる。ファンクスの指導を受けた後1973年11月24日、蔵前国技館におけるタッグマッチ、ブルーノ・サンマルチノ・カリプス・ハリケーン戦で日本デビュー(パートナーは馬場)。だがプロレスに適応できず(馬場の回想によると「適応しようとしなかった」)、ゴリラ・モンスーンと柔道ジャケットマッチを行ったりしたが(1974年6月13日、東京体育館)、やはり反響に乏しく、1977年のジャンボ鶴田とのUNヘビー級戦を最後にリングを去った。プロレスラーとしての得意技はアルゼンチン・バックブリーカー。
1985年、国際柔道連盟(IJF)教育普及理事、1987年、国際オリンピック委員会(IOC)委員。1997年10月、IJF10段。2000年、国士舘大学名誉博士。
[編集] エピソード
東京オリンピックに際し、無差別級に出場するヘーシンクに勝つことの困難さは日本の柔道関係者も承知していた。その中で無差別級の出場者は熟考の末神永昭夫に決まる。「無差別級に勝ってこそ柔道の本家」という意識は非常に強く、神永は文字通り日本の期待を背負っての出場だった。二人は決勝戦で対戦する。
いわば、ヘーシンクにとっては「敵地」での決勝戦であったが、9分22秒(当時、試合時間は10分であった)袈裟固で一本を取り、ヘーシンクの優勝が決まった。その瞬間、会場の日本武道館は静けさに包まれたが、それを破るように一人のオランダ人青年が歓喜のあまりヘーシンクに駆け寄ろうとした。しかし、ヘーシンクは静かにこれを手で制した。これは「柔道は礼に始まり礼に終わる」という精神を重んじ、敗者である神永の名誉を傷つけないための行動であった。