南北戦争
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南北戦争(なんぼくせんそう、英語: American Civil War, 1861年-1865年)は、アメリカ合衆国に起こった内戦である。奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部(23州)との間で戦争となった。
お互いにあらゆる国力を投入していたことから世界で最初の総力戦(Total War)だった、とする説もある(他説では日露戦争から、とするものもある。なお、総力戦という言葉ができたのは第一次世界大戦の頃)。また、civil warとは内戦を意味する言葉だが、とくにこの南北戦争の事を指してthe Civil Warとして2単語を大文字始まりで表記する。
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[編集] 背景
当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人労働奴隷により支えられていた。そして、農園所有者が実質的に南部を支配していた。南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益だったため、南部は自由貿易を望んでいた。
それに比べ、北部では米英戦争(1812~14年)による英国工業製品の途絶でかえって急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし奴隷制とは相容れられなかった。また、欧州製の工業製品よりも競争力を優位に保つために保護貿易が求められていた。そして、商工業振興州と自由州の対立が激化した。そこで、カリフォルニア州を自由州として、ニューメキシコ、ユタについては州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)となった。
この協定によって、南部は奴隷州が少数派となること(すなわち上院議員の数が自由州側の方が多くなる)に危機感を抱いた。
[編集] 経過
[編集] 開戦
1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選した。この時点では、奴隷は個人の私有財産であることもあり、リンカーン自身は奴隷制廃止を宣言していなかったが、南部では不安が広がった。
1860年12月にサウスカロライナ州が連邦からの脱退を宣言。翌1861年2月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も連邦からの脱退を宣言した。2月4日には7州で参加したアメリカ連合国を設立。ジェファーソン・デイヴィスが大統領に選出された。
3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12日に南軍が連邦のサムター要塞を砲撃して戦端が開かれた(サムター要塞の戦い)。5月までにバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州が連合国に合流した。
[編集] 東部戦線
当初リンカーン大統領が動員した戦力は7万5,000人、兵役期間は3ヶ月と短期間で、早期に決着がつくと考えていたと言われている。しかし1861年7月の北軍のバージニアへの侵攻は、第一次ブル・ランの戦い(第一次マナサスの戦い, 7月21日)での南軍の頑強な抵抗の前に頓挫させられ、戦争の長期化は避けられない情勢となった。
1862年3月、ジョージ・マクレラン率いるポトマック軍がリッチモンドの南東に上陸し、5月にはリッチモンドに肉薄するところまで侵攻した。しかし七日間の戦い(6月25日-7月1日)の結果、南軍のロバート・リーによって撃破され、退却させられた。連動してジョン・ポープ率いる部隊もバージニアへ侵攻するが、第二次ブル・ランの戦い(8月28日-8月30日)でリーに敗北した。戦勝の勢いでリーはメリーランドへの侵攻を試みるが、アンティータムの戦い(9月17日)の結果、後退を強いられた。
戦局がもちなおしたのを見た大統領リンカーンは1862年9月、奴隷解放宣言を発した(本宣言は翌年1月)。このころからリンカーンは奴隷制に対する戦いを大義名分として前面に押し出すようになり、その成果もあって連合国がイギリスやフランスから援助を受けようとする努力は失敗に終わった。
1863年、リーは再度の北部侵攻に出たが、ゲティスバーグの戦い(7月1日-7月3日)の末、再び後退を強いられた。この戦いでの戦没者のための国立墓地献納式典においてリンカーン大統領が行った演説がゲティスバーグ演説として知られる有名な演説である。
[編集] 西部戦線
西部戦線では北軍が優勢に戦いを進めた。北軍はミシシッピ川沿いに南下し、1862年5月18日には南部最大の都市ニューオーリンズを陥落させた。南軍のケンタッキーへの侵攻作戦はペリービルの戦い(10月8日)とストーンズリバーの戦い(12月31日-1863年1月2日)によって失敗した。
西部戦線で重要な役割を果たしたのがテネシー軍を率いた北軍のユリシーズ・グラントであった。グラントはヴィックスバーグの戦い(5月18日-7月4日)で同要塞を攻略してミシシッピ川の支配権を確保し、チャタヌーガの戦い(11月23日-11月25日)の勝利で南部の中心地帯への侵攻路を開いた。
[編集] 戦争の終結
1864年3月、グラントが北軍総司令官に就任した。南軍の一部隊はこの夏には連邦首都ワシントンD.C.にまで迫ったが、戦争が長期化するにつれて、装備など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになっていた。
さらに、西部からはウィリアム・シャーマンが大西洋に向かって海への進軍を開始し、9月にはアトランタを陥落させた。1865年4月3日には南部の首都リッチモンドが陥落した。9日にはリーが降伏し、南北戦争は事実上終了した。
最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人に達した。両軍合わせて62万人の死者を出し、国土を荒廃させることとなった。
[編集] 戦後
詳細はレコンストラクション参照
「奴隷解放宣言」により南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放された。しかし南部における黒人に対する差別や偏見はその後も潜在的に残り、KKKなどの活動を生み出す土壌となった。
[編集] 南北戦争の意味
南北戦争については次のような対立軸が考えられる。
- 奴隷制を否定する北部 v.s. 奴隷制を肯定する南部
- 保護貿易を求める北部 v.s. 自由貿易を求める南部
このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。
この対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。この戦争の直前には日本へ黒船が来航しており、欧州から始まった産業革命の波は東西から東アジアに達していた。
農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と原料供給地としての農業経済を継続したい南部が一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。
南部は独立を求めた。その理由は、奴隷制の維持である。独立しないと、奴隷制廃止の州がどんどん増えて、奴隷制が消滅してしまう。
モンロー主義を掲げ、欧州による経済支配を恐れた北部は、強い主権国家を標榜しており、南部の独立は認めがたかった。また、当時のアラスカはロシア領であり、数年前にクリミア戦争で南下政策が食い止められたばかりであった。合衆国としての強い基盤を築くためには独立を求める南部と対立することが避けられない情勢となった。サムター要塞の戦いをきっかけとして、先鋭化した対立環境は火を噴くこととなった。
結果的に北部が勝利し、合衆国は国民国家として発展を続けることになる。終戦後にアラスカは買収され、北アメリカ大陸は世界的にも安定した情勢を保つことになり移民流入の増大も国力を伸張させた。列強の一つとなった合衆国は、欧州に対する相対的な国力増大を背景に中南米や東アジアにおいて国際的な活動を展開することとなった。
[編集] 南北戦争を舞台とした映画
- 國民の創生 (1915年、監督:D・W・グリフィス)
- 若草物語
- キートンの大列車追跡(1926年、監督:バスター・キートン、クライド・ブラックマン)
- 風と共に去りぬ(1939年、監督:ヴィクター・フレミング)
- 七人の脱走兵(1954年、監督:ヒューゴ・フレゴネス)
- ふくろうの河(1962年、監督:ロベール・アンリコ)
- ダンディー少佐(1964年、監督:サム・ペキンパー)
- 続・夕陽のガンマン(1966年、監督:セルジオ・レオーネ)
- ロング・ライダーズ(1979年、監督:ウォルター・ヒル)
- グローリー(1989年、監督:エドワード・ズウィック)
- 潜水艦CSSハンレー(1999年、監督:ジョン・グレイ)
- コールド マウンテン(2003年、監督:アンソニー・ミンゲラ)
[編集] 南北戦争を舞台としたゲーム
- コマンドマガジン日本版第59号「アンティータム会戦」国際通信社
- 「大戦略南北戦争(The Civil War)」Victory Games社/ホビージャパン社/1983年
- 「The War for the Union」Clash Of Arms社/1992年
- 「For the People」AvalonHill社/1998年
- 「ハウス・デバイデッド(A House Divided)」GDW社/1981年 ファランクスゲームズ
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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