イスラエル王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イスラエル王国(ממלכת ישראל)は紀元前1021年ごろ中近東に成立したユダヤ人王国。イスラエルという名前はユダヤ民族の伝説的な始祖ヤコブが神に与えられた名前にちなんでいる。当初は統一王国であったが、後にユダ王国(南王国)が分離したため、分離後のイスラエル王国は、北イスラエル王国あるいは北王国ともいわれる。イスラエル王国というとき、統一王国と分裂後の北王国の両方を指す。
目次 |
[編集] 概説
紀元前922年ごろのソロモン王の死後、部族間の統制を失った統一イスラエル王国は北王国として知られるイスラエル王国と南王国として知られるユダ王国に分裂した。以下、旧約聖書の列王記に描写されるイスラエル王国の歴史を紹介する。
預言者アヒヤはソロモン王死後の王国の分裂を預言。後継者争いの中で身の危険を感じてエジプトに逃れていたヤロブアムは、イスラエル王国内の不満分子にかつがれる形でイスラエルへ戻ってきた。
ヤロボアムや各部族の代表たちはソロモン王の後継者レハブアムに謁見して重税と賦役の軽減を願ったが、にべもなく跳ね返された。これに不満を感じて諸部族がレハブアムに叛旗をひるがえした。抵抗を受けたレハブアムはエルサレムに逃れ、部族連合にかつがれたヤロブアムはイスラエルの新しい王ヤロブアム1世としてシケムで王位についた。これが北王国(イスラエル王国)である。
12部族のうち、10部族がヤロブアムを支持し、レハブアムのもとに残ったのはユダ族とベニヤミン族だけであった。レハブアムからユダ王国が始まる。二つの王国は60年にわたって争い、ヨシャファトがアハブの娘アタリヤと結婚したことで同盟が成立したが、アハブ王家はイエフのクーデターにより断絶し、イエフがイスラエルの王となった。
人口の点でも耕地面積においてもイスラエル王国はユダ王国をしのいでおり、経済的にも優位に立っていたが、多くの部族をかかえたイスラエル王国は、反ユダ王国感情によってまとまっているにすぎず、きわめて不安定でクーデターが頻発し、王朝はたびたび交代した。ヤロブアム2世時代にもっとも繁栄したが、その後は凋落した。預言者アモスはモラルの低下を鋭く弾劾したが、紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされることになった。このとき、捕虜となった人々がアッシリアの首都に連行された事件が第一次バビロン捕囚と呼ばれている。
[編集] 王国の変遷
ソロモン王の最大版図は地中海沿岸のフェニキア人都市国家群を除けば、34000平方キロほどであった。イスラエル王国は24000平方キロほどであり、最初の首都はシケムであったが、後にティルツァをへてサマリアに落ち着いた。サマリアは北王国がアッシリアの軍靴に踏み潰されるまで首都でありつづけた。サマリアはアッシリアのシャルマナセル5世の包囲に耐えていたが、シャルマナセルの死後王位についたサルゴン2世の猛攻によって陥落。253年にわたって存続した北王国は終焉を迎えた。民は連れ去られ、あるいは中東全域に離散した。歴史の中に消えた彼らはイスラエルの失われた十部族とも呼ばれる。北王国滅亡後、アッシリアの植民政策により多くの非ユダヤ人が植民したため、サマリアは正統派のユダヤ人から異民族との混血の地として軽侮されることになる。
[編集] イスラエル王国の歴史
長らく王政を取らなかったイスラエルの最初の王はサウルであった。サウルは12部族の中から選ばれたが、中央集権的というより部族長を中心とする寡頭政治のリーダーであった。
[編集] ダビデの時代
その後、初代の王サウルが王国建設途上で挫折した後を継いだダビデは、ペリシテ人を撃破するなど軍事遠征を成功させ、近離王国と友好同盟を結び、イスラエルをその地方の強カな勢力に作り上げた。その結果、ダビデの権力はエジプトや紅海の境界からユーフラテスの川岸にまで広がっていった。つまり、北はダマスカスから南はアカバ湾にいたる地域を確保し、エルサレムを王都に定めてイスラエル王国の礎を築いた。
国内でもダビデは新しい統治を始めた。イスラエルを構成する12部族を1つの王国に統一し、エルサレムと君主政治を民族の支柱においた。聖書の言い伝えでは、ダビデには多彩な才能が備わっていたようである。彼の詩の才能、音楽の才能などは、「ダビデの作」と言われている詩篇の中にうかがうことができる。
また、当時の国際情勢としてはメソポタミア・シリア・エジプト等に割拠する諸国は、当時の新興国家であったイスラエルに干渉する余裕のなかったことが幸いした。
[編集] ソロモン王の時代
ソロモン王は、父ダビデが築いた国を継承し、その王国をより強大にするためにもっぱら努カした。近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげた。ソロモン王は外国との交易を広げ、銅の採鉱や金属精錬など大きな事業を進めて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行った。また、大規模な土木工事をもって国内各地の都市も強化している。フェニキアの技術を導入してエルサレムに壮麗な神殿(エルサレム神殿)を建立したことでも有名である。これはユダヤ人の民族生活、宗教、生活の中心となった。旧約聖書のなかの『箴言』と『雅歌』は、かつてソロモン王の手によるものと考えられていた。しかし、晩年は偶像崇拝を容認するようになり、ユダヤ教徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発。国家分裂の原因の一つにまでなっている。
[編集] 王国の分裂
ソロモン王の長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしたが、統一王国という支配体制は一般民衆の不満からほころぶことになった。人々はソロモン王の野心的な事業のために重税と賊役をになわされていたのである。またソロモン王が自分の出身部族を優待したことも他の部族を慣概させ、君主政治と部族分離主義者との対立が次第に大きくなった。
イスラエルが分裂した原因は、人々の間での富の偏在をさけることが出来なかったこと、国庫財政の悪化から租税強化や大規模土木工事によって生じる強制労働の重圧を敷いたこと、さらに大規模土木工事等によって生じる利権からの政治腐敗、などがあげられる。いわば王国に内在していた矛盾がソロモン王の死とともに一気に噴出して、南北の2国に分裂することになったのである。
イスラエル王国はイスラエルの10部族の地域にサマリアを首都として、19代の王の下に200年以上の統治が続いた。
[編集] 歴代の王たち
年号はウィリアム・オルブライトによる。年号はすべて紀元前。
- 1021年-1000年 サウル イスラエルの最初の王
- 1000年 イシュボシェト サウルの子、暗殺される。(サムエル記下 4:7)
- 1000年-962年 ダビデ
- 962年-922年 ソロモン王 ダビデがバト・シェバとの間にもうけた子。
- 922年 レハブアム イスラエル王国から分離したユダ王国の最初の王になる。
イスラエル王国とユダ王国に分裂
- 922年-901年 ヤロブアム1世
- 901年-900年 ナダブ 暗殺される。(列王記上 15:28)
- 900年-877年 バシャ
- 877年-876年 エラ 家臣ジムリの手で暗殺される。(列王記上 15:28)
- 876年 ジムリ 主君エラを撃ち、7日間王位にあったが、進撃してきた武将オムリの前に死ぬ。
- 876年-869年 オムリ
- 869年-850年 アハブ 妻はイゼベル。
- 850年-849年 アハズヤ
- 849年-842年 ヨラム
- 842年-815年 イエフ
- 815年-801年 ヨアハズ
- 801年-786年 ヨアシュ
- 786年-746年 ヤロブアム2世 イスラエル王国の絶頂期。
- 746年 ゼカルヤ 家臣シャルムの手で殺害される。(列王記下 15:10)
- 745年 シャルム ゼカルヤを殺害して王位につく。
- 745年-738年 メナヘム
- 738年-737年 ペカフヤ 侍従ペカの手で殺害される。(列王記下 15:25)
- 737年-732年 ペカ 家臣だったホシェアに暗殺される。(列王記下 15:30)
- 732年-722年 ホシェア イスラエル王国最後の王。侵攻したアッシリア軍に一度は従順を誓うも、密かにエジプトと結ぼうとしたためアッシリアによって牢に入れられた。(列王記下 17:4)