イワン・ポロスコフ
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イワン・クジミーチ・ポロスコフ(パラスコフ、Иван Кузьмич Полозков、Ivan Kuz'mich Porozkov、1935年 - )は、ソビエト連邦の政治家。ロシア人。ゴルバチョフ時代末期、ロシア共産党第一書記となり、レニングラード党第一書記のボリス・ギダスポフとともにソ連共産党保守派を代表する領袖であった。
[編集] 概要
1954年から1957年まで徴兵され、兵役に就く。軍務終了後、クルスク州のコルホーズに勤務する。1958年ソ連共産党に入党し、同年からクルスク州コムソモールを始めに州ソビエト、党機関の専従職員となった。この間、全ソ通信教育財政・経済大学、ソ連共産党中央委員会通信教育高等党学校を卒業し、同社会科学大学院を修了している。
1975年ソ連共産党中央委員会勤務。1983年クラスノダール地方党書記。1984年党中央委組織・党活動部課長を経て、1985年クラスノダール地方党第一書記に就任し、翌1986年には、党中央委員に選出された。
ゴルバチョフのペレストロイカによる政治改革で人民代議員大会が制度化されると、1990年ロシア共和国人民代議員に選出される。また、共産党と国家の一元化の観点から、ソ連を構成する各級共産党指導者(第一書記)がソビエト議長を兼務することとなり、ポロスコフもクラスノダール地方人民代議員ソビエト議長に選出された。
ソ連国内の民族主義の噴出に伴い、共産党保守派は、ロシア共産党の結成に動いた。元来、ソ連共産党イコールロシア共産党であり、ロシア共和国はいわばソ連構成各共和国の長兄として、フルシチョフ期に設置されたロシア共和国ビューローを除き、共和国党を持っていなかったのであったが、1990年6月ロシア共産党が結成され、ポロスコフが第一書記に選出された。同年7月には共産党党規約の改正に伴い、各共和国党第一書記とともに党政治局員に就任した。こうしてポロスコフは、エゴール・リガチョフの失脚後、レニングラード党第一書記のボリス・ギダスポフとともに共産党保守派の新たな領袖として台頭した。また、ロシア共和国にあっては、急進改革派でロシア共和国最高会議議長(のち大統領)のボリス・エリツィン、中間派、穏健改革派(ゴルバチョフ派)のイワン・シラーエフ首相と並んで三頭鼎立状態を形成することとなった。
ゴルバチョフの「右旋回」(保守派に対する接近)により、ポロスコフら保守派は優位に立ったかに見えたが、1991年にゴルバチョフは再び改革派に舵を切り、新連邦条約調印をめざした。これに対して保守派は国家非常事態委員会によるクーデターを起こしゴルバチョフの解任とゲンナジー・ヤナーエフ副大統領を大統領代行とした。ポロスコフは、クーデターを支持したが、エリツィンらの反撃でクーデターは失敗し、ロシア共産党を含むソ連共産党は活動停止となり、ポロスコフも政治の表舞台から消えた。
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