エリモジョージ
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1972年3月17日 |
死没 | 2001年4月10日 |
父 | セントクレスピン |
母 | パッシングミドリ |
生産 | 出口留雄 |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
馬主 | 山本慎一 |
調教師 | 大久保正陽(栗東) |
競走成績 | 44戦10勝 |
獲得賞金 | 2億6316万800円 |
エリモジョージは、日本の競走馬。セントクレスピンを父に持つ、1976年天皇賞(春)・1978年宝塚記念優勝馬。同期には快速二冠逃げ馬カブラヤオー・テスコガビーがいる。稀代の癖馬・カブトシローに勝るとも劣らずのムラ駆け故に『気まぐれジョージ』と呼ばれた。
- 馬齢については原則旧表記(数え歳)とする。
目次 |
[編集] 戦績
1974年8月10日に函館競馬場でデビュー。新馬戦を2着ののち折り返しの新馬戦で初勝利を挙げる。デイリー杯3歳S14着・白菊賞1着を経て阪神3歳Sで初めて天才・福永洋一と組み、人気薄ながら3着に逃げ粘る。3歳時を5戦2勝と決して悪くない結果で終えたエリモジョージは、4歳緒戦のシンザン記念を1番人気で重賞初勝利。これが最初で最後の1番人気の勝利だった。
重賞勝ち馬と言う金看板を得てクラシック戦線に突入したエリモジョージだったが、毎日杯で1番人気の6着(9頭立て)と惨敗すると、続くスプリングステークスでも2番人気の7着と惨敗。9番人気という低評価だった皐月賞で3着に追い込んだ以外は、稀代の逃げ馬カブラヤオーの存在もあり、二桁着順を連発し見せ場すら作れずに終わった。
夏の札幌記念(当時はダート重賞)も惨敗したエリモジョージは秋の雪辱を期し、えりも農場(馬主である山本慎一の所有する牧場で、現在のエクセルマネジメント。)で休養に入った。ところが、休養先のえりも農場の厩舎が原因不明の火災に巻き込まれてしまう。エリモジョージは辛くも救い出されたものの、このアクシデントが響き菊花賞にはトライアルにすら出走出来ずに終わった。
5歳になって現役に復帰したエリモジョージだったが、池添兼雄(現・調教師)を鞍上に年明け4戦して勝利を収める事が出来ず、前年のシンザン記念勝利以降から続く10連敗。サンケイ大阪杯・鳴尾記念では連続3着したものの、10連敗が強調された嫌いもあり、天皇賞(春)では、鞍上が福永に戻るという好材料があるにも関わらず、17頭立て12番人気の低評価だった。しかし、福永にとって人気薄は秘策を実行するには好都合であった。福永はエリモジョージの気性を逆手に取って、今迄に無い大胆な「捕まりそうで捕まらない」逃げ戦法に打って出た。不良馬場を考慮に入れたこの秘策は見事に当たり、ターフの魔術師・武邦彦鞍上のロングホークの追撃を振り切って優勝した。
なお、このレース実況を担当した関西テレビ・杉本清アナは、前述の火災による悲劇に絡め「見てるか天国の仲間たち、俺はお前たちの分まで走ったぞ!勝ったのはエリモジョージです。何もないえりもに春を告げた」という名実況を残している。
その後、天皇賞の次走・宝塚記念(池添騎乗)をフジノパーシアの7着を皮切りに、短距離S(カブラヤオーが優勝)6着・巴賞7着と3連敗するものの、60キロを背負った函館記念では、9頭立ての8番人気をあざ笑うかのように2:00:9のレコードタイムでアグネスビューチー・グレートセイカン(前走の札幌記念でトウショウボーイ・クライムカイザーを撃破)以下に快勝。テンポイントが参戦(3着)していた京都大賞典9着(2番人気)を経て次走・京都記念(秋)を斤量61キロが不安視されたが、5番人気の低評価を跳ね返す当時の日本レコード2:25:8で勝利。クモハタ記念4着の次走、テンポイントらを差し置いて2番人気で望んだ有馬記念は、1歳下の天馬・トウショウボーイの6着に沈んだ。
明け6歳になってもムラ駆けは相変わらずで、年明け早々の金杯での7頭立て1番人気の7着を皮切りに、京都記念・サンケイ大阪杯・鳴尾記念の3レースでテンポイント・ゴールドイーグルに打ち負かされ、寺田雅之(現・調教助手で、後年ナリタブライアン担当)騎乗で臨んだオープン競走も8着と完敗。その後は脚部不安もあり休養。休養明けの中京競馬場でのオープンを好位差しで制したが、続く阪神大賞典ではまたもやブービーに敗れ去った。
そんなエリモジョージだったが、7歳になってからは一転して快進撃を続けた。テンポイントが故障した日本経済新春杯こそ4着だったものの、続く京都記念を60キロで快勝すると、鳴尾記念を62キロながらホクトボーイ以下に大差をつける圧勝。宝塚記念は裸同然の55キロでグリーングラス・ホクトボーイ以下相手に鮮やかに逃げ切って見せ、福永に『競走馬として完成した』と言わしめる程の快勝を演じた。
しかし、その後の高松宮杯では、天才の想いを嘲笑うかの様に殿負けを喫すると、元通りの惨敗街道に逆戻り。ラストランとなった8歳時の宝塚記念(松田幸春騎乗)は5番人気で殿負けと言う結果に終わった。
[編集] 引退後
無事引退したエリモジョージは種牡馬入りするが、只でさえ国内産種牡馬冷遇時代(アローエクスプレス・トウショウボーイの活躍により、この頃からそれ程でもなくなってきていたが)だったうえに、産駒の殆どが彼に似て気性に問題がある馬が多かった為に生産者側の受けも悪く、結局エリモジョージの種牡馬生活は失敗に終わった。
[編集] 競走成績
1974年(5戦2勝)
1975年(7戦1勝)
1976年(13戦3勝)
1977年(7戦1勝)
1978年(8戦3勝)
1979年(4戦0勝)
[編集] 血統表
エリモジョージの血統 ハイペリオン系/Gainsborough 4×5=9.375%、Pharos 4×5=9.375%、Foxhunter 5×5=6.25% | |||
父
*セントクレスピン Saint Crespin 1956 栗毛 |
Aureole 1950 栗毛 |
Hyperion | Gainsborough |
Selene | |||
Angelola | Donatello | ||
Feola | |||
Neocracy 1944 黒鹿毛 |
Nearco | Pharos | |
Nogara | |||
Harina | Blandford | ||
Athasi | |||
母
パッシングミドリ 1966 鹿毛 |
*ワラビー Wallaby 1955 黒鹿毛 |
Fast Fox | Fastnet |
Foxcraft | |||
Wagging Tail | Tourbillon | ||
Foxtail | |||
グローリアス 1948 鹿毛 |
*セフト Theft |
Tetratema | |
Voleuse | |||
雪義 | *トウルヌソル | ||
種義 F-No.12 |