トウショウボーイ
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1973年4月15日 |
死没 | 1992年9月18日 |
父 | テスコボーイ |
母 | ソシアルバターフライ |
生産 | 藤正牧場 |
生国 | 日本(北海道静内町) |
馬主 | トウショウ産業(株) |
調教師 | 保田隆芳(美浦) |
競走成績 | 15戦10勝 |
獲得賞金 | 2億8077万4800円 |
トウショウボーイは日本の競走馬である。テンポイント・グリーングラスと共にTTG時代を作り、そのスピードから「天馬」と称された。競走成績15戦10勝。主な勝ち鞍皐月賞・有馬記念・宝塚記念。1976年年度代表馬、最優秀4歳以上牡馬。顕彰馬。
主な兄弟には半兄にトウショウピット・半姉にソシアルトウショウがいる。
- 馬齢については原則旧表記(数え)とする。
目次 |
[編集] 戦績
[編集] 4歳
1976年1月31日の東京競馬場。トウショウボーイは4歳(現表記3歳)で遅いデビューを迎え、1番人気で2着に3馬身差の圧勝でその競走馬としてのスタートを切った。(同レースにはグリーングラス(4着)、そして後にトウショウボーイの代表産駒・三冠馬ミスターシービーを産むシービークイン(5着)が出走していた。)
その後、圧倒的な強さで連勝街道を突き進み、3連勝で迎えたクラシック第一弾の皐月賞(鞍上・池上昌弘)では、同じくデビューから5連勝中の貴公子・テンポイントとの初対戦を迎えた。だが、厩務員ストの為に本来の開催日に開催出来ず、急遽翌週の府中での開催と言うドタバタが発生。これがレースの綾となる。人気こそ重賞勝ちのあるテンポイントの後塵を拝したが、レースは2着争いの馬群から辛うじて抜け出したテンポイントに5馬身差で勝利。府中で開催の情報が関西遠征組に届くのが遅れた為、一部では『オーナー(当時参議院議員の藤田正明)の謀略に負けた』と言われたが、レース自体は『(ドタバタが無かったとしても)トウショウボーイは至上最強の皐月賞馬』と未だに言わしめる程の圧勝であった。
続く東京優駿(日本ダービー)は皐月賞快勝が決め手となり単枠指定を受け堂々の1番人気。それに応えるかの様に、トウショウボーイは天性のスピードのみでハナを切る。今や懐かしのテレビ馬狙いの馬達を問題にしない逃走劇はゴールまで続くと思われた。だが闘将と称されたクライムカイザー鞍上の加賀武見が、最後の直線でトウショウボーイに反旗を翻す。加賀はトウショウボーイの弱点(馬体を併せられると怯む)を突き坂下の出し抜けを食らわし、まんまと残り200mで4馬身の差を築く事に成功。トウショウボーイも必死に立て直し追撃するも1馬身半届かず、まさかの敗戦を喫したのである。
予想外の敗戦を喫したトウショウボーイ陣営は、北海道での夏休みを返上して札幌記念に参戦を決定。それを知ったクライムカイザー陣営も、ダービー勝ちがフロックで無い事を証明すべく急遽参戦。当時はダート専用競馬場だった札幌競馬場は6万人を超えるファンが殺到(現在まで打ち破られていない入場人員レコード)、レストラン・売店が午前中に売り切れ・閉店になる程の、開場以来屈指の大騒ぎとなった(最も、来客者の大半はトウショウボーイとクライムカイザーの区別が出来ない所か、全く関係無い下級条件馬や最初にパドックに現れたアラブのトクノハルオーをトウショウボーイと勘違いしてカメラを向けるファンばかりだったが…)。だが、この事態が豪腕で知られるグレートセイカン騎乗の郷原洋行の闘志を燃え上がらせる。『加賀に勝るとも劣らずの負けず嫌い』の郷原は、「トウショウボーイは必ずクライムカイザーを気にするはず」と読み、逃げの戦法を練った。レースは6万の歓声に怯んだトウショウボーイがダッシュがつかずよもやの出遅れ。これによって背負う羽目になった5馬身差のビハインドを結局巻き返すことができず、結局ダート王・グレートセイカン(東京ダート1400mレコードホルダーで、後のダービー卿チャレンジトロフィー優勝馬)にクビ差敗退。この二度に亘る失態が原因で、池上はトウショウボーイを降ろされる事になる。
夏を越して天性のスピードに磨きがかかり、更に菊花賞必勝の秘密兵器として鞍上に関西所属の天才騎手・福永洋一を迎え、神戸新聞杯・京都新聞杯ではクライムカイザーを相手に連勝。特に神戸新聞杯は2000mを1分58秒9と当時の日本レコードであった。こうして、トウショウボーイは万全の体制でクラシック三冠最後の菊花賞を、単枠指定の1番人気(2番人気は同じく単枠指定を受けたクライムカイザー)で迎えた。ところが、3000mという距離と重馬場がトウショウボーイの前に大きく立ち塞がった。距離適性の差でスタミナに優るグリーングラス、そしてテンポイントの3着に敗れてしまうのである。結果、トウショウボーイのクラシック成績は皐月賞1着・ダービー2着・菊花賞3着と距離延長とともに順位が下がり一冠に終わってしまった。
菊花賞の屈辱を晴らすべく年末の有馬記念に挑戦する事になったトウショウボーイに騎手問題が発生した。福永洋一は天皇賞馬・エリモジョージがおり、この馬と共に有馬参戦が決まっていたからだ。早速、オーナーの藤田はトウショウボーイの姉・ソシアルトウショウの主戦騎手であったお気に入りの中島啓之にオファーをかけたが、『裏開催に断れない騎乗依頼がある』と言われ断られてしまう。この時の断った理由は、トウショウボーイを降ろされた池上に気兼ねしての方便であったと言われている。池上に戻す訳にもいかず、止む無く藤田は競馬の神様と呼ばれていた大川慶次郎に相談。結果、トウショウボーイは彼が2番目に薦めた(1番目は断られた中島)福永と同じ関西所属の名手・武邦彦(現・調教師で、武豊・幸四郎兄弟の父)とコンビを組む事になったのである。
こうして、トウショウボーイは無事有馬記念を1番人気で迎えた。このレースにはテンポイントや牝馬クラシック二冠馬テイタニヤ、天皇賞馬であるエリモジョージ・アイフル・フジノパーシア達が出走してきた。武はファンの期待に応えるべく福永からトウショウボーイの情報を入手。当時、有力馬騎乗依頼が多い関西騎手はこの2人という事もあり、情報交換はさして珍しい行為で無かった。この情報が利いたのか、トウショウボーイはこれらの強豪を相手にそのスピードと強さを発揮、2着テンポイントに1馬身半の差をつけレースレコードで快勝。この快勝劇が決め手となり、1976年年度代表馬と最優秀4歳牡馬に選ばれた。
[編集] 5歳
翌1977年、有馬記念の疲れにより長期休養を余儀なくされ、緒戦はぶっつけの宝塚記念となった。天皇賞(春)を勝って上り調子の1番人気テンポイント、トウショウボーイは休み明け故に2番人気であった。レースは会心のスタートでハナを奪ったトウショウボーイが先頭で第1コーナーに飛び込み、その後をテンポイント・グリーングラス・アイフル・ホクトボーイ・クライムカイザーと続いた。前半をスローで進んだレースは、残り1000mで動く。トウショウボーイが温存していたスタミナを爆発させ一気に突き放しに掛かる。結局、追撃出来たテンポイント・グリーングラスに最後まで並ばれる事無く、第1コーナーに飛び込んだ順位のまま、ラスト3ハロン34秒5で鮮やかに逃げ切ったのである。続く高松宮杯を単勝元返しの大本命の期待に応え、決して得意と言えない重馬場を問題にせず楽勝。トウショウボーイは夏を越す為に北海道に向かった。
順調に夏を越したトウショウボーイは、見習いジョッキーの黛幸弘鞍上でオープン戦(芝1600m)に出走。黛の『早く終わって欲しい』の思いに応えたのか、トウショウボーイは当時の日本レコード(1分33秒6)と言う『誰よりも速いタイム』で圧勝。これが決め手となり、単枠指定1番人気で天皇賞(秋)に挑む。しかし、想定外の事態-競走馬生活史上最悪の体調不良-がトウショウボーイに襲い掛かる。加えてレースは距離不適(当時の天皇賞・秋は芝3200m)に加え馬場は稍重。これらを加味した上で武はロングスパートを仕掛けるが、嶋田功鞍上の病み上がりのグリーングラスがよもやの競り合いを仕掛けて来た。短距離戦さながらの熾烈な競り合いでスタミナ切れの共倒れとなり、同じテスコボーイ産駒のホクトボーイにトウショウボーイ唯一の着外・7着と敗れた。そして陣営はトウショウボーイを年末の有馬記念を最後に現役引退させることに決めた。
引退レースを飾るべくスタッフの懸命な努力により回復したトウショウボーイは、有馬記念をテンポイントに次ぐ2番人気で迎える事になった。今も中央競馬史上最高のレースの一つに称されるこのレースは、実質的にはトウショウボーイとテンポイントの二頭立てのレースであった。(当時はTTGの三強対決というイメージは無く、直前になって回避したマルゼンスキーを加えた三頭の対決と見られていた)スタートから間もなくテンポイントとの壮絶なマッチレース、直線ではグリーングラスの意地の追い込みを受けながらもこれを退け最後は僅差の2着に敗れテンポイントのリベンジに屈する形となったが、有名な実況を残した杉本清もテンポイントを称えると同時に「しかし、さすがにトウショウボーイも強かった」と彼の強さを称えている(但し杉本は当時、関西テレビ所属のアナウンサーであり、レースそのものの実況は担当していない。フジテレビが放送権を持っていた)。(4着には1歳下の菊花賞馬プレストウコウが入った)。(レースに関する詳細については第22回有馬記念を参照)
[編集] 引退後
引退後の種牡馬としての成績は当時のノーザンテーストなどの外国産種牡馬が持て囃される状況の中にあって、ミスターシービーを初めとした数々の名馬を送り出し、マルゼンスキーと共に内国産種牡馬のエース格となった。産駒の勝ち上がり率が高い上に、日高軽種馬農協の持ち馬ということで種付け料が低く抑えられ、産駒はしゃんとした姿であれば概ね高く売れたことから生産農家からは「お助けボーイ」とも呼ばれた。牝馬に活躍馬が多く後継種牡馬をほとんど残せなかったことが悔やまれる。また、母の父としても成功している。1984年にはミスターシービー3冠達成が決め手となり、顕彰馬に選定される(ライバル・テンポイントは6年後に選定)。
まだまだ種牡馬としての活躍が期待されていたが、1992年9月18日、蹄葉炎の悪化により安楽死処分となった。墓は北海道・静内町(現・新ひだか町)のトウショウ牧場に建てられている。
[編集] 主な勝鞍
- (GI級)皐月賞、有馬記念、宝塚記念
- (GII級)神戸新聞杯、京都新聞杯、高松宮杯
[編集] 主な騎乗騎手
[編集] 主な活躍産駒
- ミスターシービー - 牡馬クラシック三冠、天皇賞(秋)
- ダイイチルビー - 安田記念、スプリンターズステークス
- シスタートウショウ - 桜花賞
- アラホウトク - 桜花賞
- サクラホクトオー - 朝日杯3歳ステークス
- パッシングショット - マイルチャンピオンシップ
- セキテイリュウオー - 中山金杯、東京新聞杯、天皇賞(秋)2着(93、94年の2年連続)
- ダイゼンキング - 阪神3歳ステークス
- ウインドストース - ダービー卿チャレンジトロフィー2回、函館記念、中日新聞杯
[編集] 総評
トウショウボーイは、武邦彦に『2000メートル迄なら現在でも勝ち負けできる』と言わしめた程の特A級マイラーである。事実、得意距離で負けたのはダート戦の札幌記念だけ(しかも、致命的スタートミスをしながらのハナ差2着)である。だからと言って長い距離が駄目と言う訳では無く、完全な良馬場条件なら2500メートルの有馬記念をレコード勝ちしている。奇跡の血量と言われる18.75%を英ダービー・セントレジャー勝ちの名馬ハイペリオンから受け継いだ効果とも言える。その点は、同型馬のアローエクスプレス・ハイセイコーより優秀(どちらも2400メートル以上のレースは未勝利)と言えよう。逆に言うと、馬場状態が良ければ距離延長は個体能力でカバーできる性能を持っていたとも言える。その証拠に、敗退したレースで芝の完全な良馬場だったのは『加賀にしてやられた』ダービーだけで、それ以外は雨(菊花賞&天皇賞)・荒れ馬場(有馬記念)と馬場状態に問題が有るレースだけで敗退(しかも、着外惨敗は体調不良な上にグリーングラスと共倒れになった天皇賞だけで、他は菊花賞=3着・有馬記念=2着と距離不安の割には好走)している。しかも、距離の問題が無ければ重馬場でも勝利している(高松宮杯)事を考えると、トウショウボーイは単一のハンデで負ける様なヤワな馬で無いと言えよう。
尚、トウショウボーイは腰が甘い上に蹄が小さい事もあり、他の馬に比べ脚部への負担(特に全力で走った時)が大きく、調教師の保田は常に故障発生の不安に悩まされていたという。大柄の馬体(馬体重500キロ以上)の上に接地面積(体重が掛かる部分)が狭く、しかも体の安定性が悪いとなれば当然な事であろう。最も、腰の甘さは如何ともし難いが、蹄は面積辺りのパワーが大きくなると言うメリットが有るので、決して不利と言う訳では無さそうである。
因みに、これらの能力は産駒にも受け継がれており(流石に『腰が甘い上に蹄が小さい』を受け継いだ名馬は居ない様ですが…)、『重馬場下手』のサクラホクトオーはその代表例と言えよう。又、ミスターシービーも出走を予定していたアメリカジョッキークラブカップが降雪によるダート変更の可能性が高くなった為に出走を取りやめている様に、彼も馬場状態が能力に影響を与えるタイプ(唯一の重馬場レースの皐月賞は、適距離であった上に強敵・メジロモンスニーの作戦ミスにも助けられての勝利)と言えよう。
更に、『スタミナに一抹の不安のあるスピード馬』の部分も受け継いだが故に、追い込み馬として成功した馬が多い。ミスターシービー・サクラホクトオー・ダイイチルビー・シスタートウショウと言った、豪華追い込み馬ラインアップを見ても明らかと言えよう。
[編集] 血統表
トウショウボーイの血統 (プリンスリーギフト系(ナスルーラ系)/Hyperion3×4=18.75%) | |||
父
*テスコボーイ Tesco Boy 1963 黒鹿毛 イギリス |
Princely Gift 1958 鹿毛 イギリス |
Nasrullah 1940 | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Blue Gem 1943 | Blue Peter | ||
Sparkle | |||
Suncourt 1952 黒鹿毛 アメリカ |
Hyperion 1930 | Gainsborough | |
Selene | |||
Inquisition 1936 | Dastur | ||
Jury | |||
母
*ソシアルバターフライ Social Butterfly 1957 鹿毛 アメリカ |
Your Host 1947 鹿毛 アメリカ |
Alibhai 1938 | Hyperion |
Teresoma | |||
Boudoir 1938 | Mahmoud | ||
Kampala | |||
Wisteria1948 鹿毛 イギリス |
Easton 1931 | Dark Legend | |
Phaona | |||
Blue Cyprus 1941 | Blue Larkspur | ||
Peggy Porter F-No.1-w |
日本中央競馬会・顕彰馬 |
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