エリーザベト・マリー・ペツネック
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エリーザベト・マリー・ヘンリエッテ・シュテファニー・ギーゼラ(Elisabeth Marie Henriette Stephanie Gisela von Habsburg-Lothringen, 1883年9月2日 - 1963年3月16日)はハプスブルク家の大公女。愛称はエルジ(Erzsi)。オーストリア皇太子ルドルフとベルギー王女(レオポルド2世の娘)ステファニーの一人娘。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリーザベトの孫娘。
5歳の時に父ルドルフが「マイヤーリンク事件」にて死亡。15歳の時に、祖母エリーザベトが無政府主義者により暗殺される。17歳の時にオットー・ヴィンディッシュ=グレーツ(Otto zu Windisch-Graetz)侯爵と出会い、身分違いの結婚をする。この結婚のため、1902年1月に皇位継承権の放棄の宣誓署名式を行い、皇室と公式に別れを告げたが、皇族としての特権は残された。
1904年に長男フランツ、翌年に次男エルンスト・ヴェーリアント、1907年に三男ルドルフ、1909年に長女シュテファニー(Stephanie, Princess zu Windisch-Graetz)と3男1女に恵まれたが、いつの間にか夫との間には隙間風が吹き始めた。
第一次世界大戦中は赤十字の看護婦として兵士の看護に当たった。1919年に夫オットー・ヴィンディッシュ=グレーツとの離婚調停が始まり、法廷は子供全員の親権をオットーに与えたため、離婚調停後、エリザベートの元に警察が来て子供の引き渡しを求めたが、子供を取り上げられることに同情したオーストリア社会民主党の運動員たちが阻止した。これをきっかけに、社会民主党の指導者レオポルト・ペツネック(Leopold Petznek)との同居が始まり、また社会民主党に入党して世間を驚かせた。エリーザベトは世間から「赤い皇女」と呼ばれた。
1938年、アドルフ・ヒトラーによってオーストリアがドイツに併合された後、1944年8月22日にペツネックは逮捕され、ダッハウ強制収容所に送られるが、1945年6月に解放されてエリーザベトの元へ戻った。エリーザベトは第二次世界大戦中、ウィーンで亡命者の援助などをしていた。1948年にオットー・ヴィンディッシュ=グレーツと正式に離婚し、ペツネックと再婚した。
1963年3月16日、エリーザベトは79歳で亡くなった。墓石には名前も碑文も記されなかった。また、遺品や絵画はすべて国に寄贈するという遺言を残した。ハプスブルク家のものは国に返すべき、という考えに基づいて行なった事だった。