オークランド・レイダーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カンファレンス | AFC |
地区 | AFC西地区 |
創設 | 1960年 |
スタジアム | マカフィー・コロシアム |
本拠地 | カリフォルニア州オークランド |
チームカラー | 銀、黒 |
チームロゴ | 銀と黒の盾に、交差させた剣と盗賊 |
ヘッドコーチ | アート・シェル (2006-) |
リーグ・チャンピオンシップ (5) 1967 (AFL)、1976、1980、1983、2002 |
|
カンファレンス・チャンピオンシップ (4) AFC: 1976、1980、1983、2002 |
|
ディビジョナル・チャンピオンシップ (15) AFL西地区: 1967、1968、1969 AFC西地区: 1970、1972、1973、1974、1975、1976、1983、1985、1990、2000、2001、2002 |
オークランド・レイダーズは、アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランドに本拠を置くNational Football League (NFL) のチームである。1970年、American Football League (AFL) とNFLの合併時に、NFLに加盟した。
- 過去のチーム名: ロサンゼルス・レイダーズ (1982-1994)
- スタジアム: マカフィー・コロシアム (1966-1981、1995-現在)
- 過去の本拠地:
- ケザー・スタジアム (1960)
- キャンドルスティック・パーク (1961)
- フランク・ヨウエル・フィールド (1962-1965)
- カリフォルニア・メモリアル・スタジアム (1 ゲームのみ。1972)
- ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム (1982-1994)
- ユニフォームの色: 1960-1962: 黒、金、白。1963-現在: 銀、黒
このチームは、法的には、アル・デイビスが運営するリミテッド・パートナーシップである。アル・デイビスは、このチームのジェネラル・パートナー (無限責任構成員) である A.D. Football, Inc. の社長を務める。
目次 |
[編集] フランチャイズ史
オークランド・レイダーズは、1960年1月、オークランドのフランチャイズ獲得後に創立された、AFL設立時のチームの一つである。レイダーズは、エクスパンジョン・フランチャイズを獲得してAFLのフランチャイズを放棄したミネソタ (NFLのミネソタ・バイキングズとなった) に替わって、新リーグ8番目のフランチャイズとなった。
チーム創立当時のオークランドは、プロ・フットボールの本拠に適した地とは言えなかった。地元にチームを求める声はなく、オーナーシップ・グループも形成されておらず、プロ・フットボールの試合を開催できるスタジアムも存在しなかった上に (近隣では、バークリーとサンフランシスコにスタジアムが所在)、サンフランシスコ湾エリアではすでにサンフランシスコ・フォーティナイナーズが人気を集めていた。しかし、ロサンゼルス・チャージャーズ (現サンディエゴ・チャージャーズ) のオーナーであるバロン・ヒルトンが、西海岸にもう一つチームが設立されなければチャージャーズのフランチャイズを放棄すると宣言したため、AFLのオーナー陣は、西海岸第2のチームの本拠地としてオークランドを選択した。このときヒルトンは、アトランタ市からの誘致を拒否している。
フランチャイズを獲得したオークランドの市民代表メンバーは、この新しいチームへの投資意欲を持つ実業家を募る。このチームの経営体として、リミテッド・パートナーシップが設立された。地元の不動産開発業者であるマネジメント・ジェネラル・パートナー、チェット・ソーダを筆頭に、ジェネラル・パートナーとしてハーベイ・ビンズ、ドン・ブレッシング、チャールズ・ハーネイ、エド・マクガー、ロバート・オズボーン、ウェイン・バリーが名を連ね、この他に多数のリミテッド・パートナー (有限責任構成員) が出資した。地方紙によりチーム名募集のコンテストが開催され、オークランド・セニョールズ が選出されたが、これは地元のジョークの種になり、数週間後、オーナー陣はチーム名をコンテスト第3位の "レイダース" に変更した。当初のチームカラーは、黒、金、白の3色であった。お馴染みの、ヘルメットを被った海賊 (または "簒奪者") のエンブレムは、俳優ランドルフ・スコットの演出によるものと伝えられる。
バークリーのカリフォルニア・メモリアル・スタジアムをホーム・ゲーム時に使用することをカリフォルニア大学に拒否されたため、サンフランシスコのカザー・スタジアムをホームとすることになった。レイダーズの最初のレギュラー・シーズンのホーム・ゲームは、1960年9月11日に開催され、レイダーズはヒューストン・オイラーズ (現テネシー・タイタンズ) に 22対37 で敗れた。最初のシーズンの成績は6勝8敗で、チームは50万ドルの損失を計上した。1961年1月17日にソーダがフランチャイズのパートナーを辞め、エド・マクガー、ウェイン・バリー、ロバート・オズボーンの3名が他のパートナーからレイダーズのオーナーシップを買い上げた。この年、レイダーズはキャンドル・スティック・パークに移り、2勝12敗でシーズンを終了。シーズン全体での観客動員数は、約5万人だった。バリーは、オークランド市内にスタジアムを建設しない限り、レイダーズの本拠地を変えると宣言する。1962年、レイダーズは初めて、オークランド市内のスタジアム、座席数1万8千 (のちに2万2千席に拡張) のフランク・ヨウエル・フィールドに移る。ただしこれは、建設中のオークランド・アラメダ・コロシアムが完成するまでの一時的なホームであった。1962年のシーズンは 1勝13敗に終わった。緒戦から13連敗し、最後の1試合で初勝利を挙げた。観客動員数は低迷を続ける。
1962年のシーズン後、バリーは、サンディエゴ・チャージャーズの前アシスタント・コーチであるアル・デイビスを、ヘッドコーチ兼ジェネラル・マネージャーとして招聘する。当時デイビスは33才、プロ・フットボール史上最年少でこの役職に就いた。デイビスは、チームカラーを銀と黒に変更した。これは主として、当時のほとんどの視聴者が見ていた白黒テレビの画面で、良く映える色だったことによる。デイビスの指揮の元、チーム成績は10勝4敗に上昇、デイビスはAFLの年間最優秀コーチに選出された。1966年、デイビスはレイダーズを去り、AFLのコミッショナーに就任する。4年後の1967年、チームはAFLチャンピオンシップに出場。ジョン・ラウチヘッドコーチの元、レイダーズはヒューストンオイラーズを40-7と下してAFLチャンピオンシップを獲得する。この勝利により、第2回スーパーボウルに出場するが、ビンス・ロンバルディー率いるグリーンベイ・パッカーズに14-33で敗れた。
1970年、AFLとNFLの合併により、レイダーズはNFLのAFC西地区所属となる。この合併は、デイビスに苦い思いを残した。彼は、メジャーリーグと同様に、単一のドラフト制度の元で、独立した2リーグでシーズンを戦い、最後にリーグ優勝を決定する、というプロ・フットボールのビジョンを持っていた。彼は、AFLのオーナー達が、NFLのフランチャイズを獲得したいがためにAFL消滅に手を貸したのだ、彼らに裏切られた、と感じていた。デイビスは、彼自身のような「フットボール・マン」が、門外漢の気まぐれに左右されることに不満を抱いた。これにより、デイビスの目標は、彼自身がオーナーとなることに据えられた。
合併により、AFLコミッショナーという職がなくなったため、デイビスは、レイダーズへの復帰をバリーと交渉する。デイビスは、チームのオーナーとして、また、フットボール運営の責任を負うパートナーとして、レイダーズにカムバックする。
1969年、ジョン・マッデンが6代目ヘッドコーチに就任し、彼の率いるレイダーズは、1970年代のNFL屈指のフランチャイズに成長した。
1972年、バリーがミュンヘンオリンピック観戦に渡航していた数週の間に、デイビスの弁護士は、デイビスにレイダーズ運営の全権を委ねる内容の、パートナーシップ契約の改正案を作成する。マクガーは、この契約にサインした。ジェネラル・パートナーの投票結果が2対1となったため、パートナーシップ法にもとづいて、この新しい契約は承認された。バリーはこれに気付いて激怒し、すぐに新しい契約内容の取り消しを求めて訴訟を起こした。勝訴したのは、デイビスとマクガーであった。結果、バリーはレイダーズの所有権を売却し、チームの所有権のごく一部しか持たないデイビスがチームを掌握することになった。
マッデンはレイダースを去り、コーチ職からも退いて、1979年にコメンテーターとなる。マッデンの後任はレイダーズの元クォーターバックであるトム・フローレスで、彼はチームを第15回スーパーボウル優勝へと導く。
1982年、レイダースは本拠地をカリフォルニア州ロサンゼルスに移し、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムでホーム・ゲームを戦うことになる。「ロサンゼルス・レイダーズ」は、翌年の第18回スーパーボウルを制覇。1987年、レイダーズは野球とフットボールを掛け持つアスリートボー・ジャクソンをドラフトで獲得するが、ジャクソンは前年、タンパベイ・バッカニアーズに1巡目で指名されたときに、フットボールはプレーしないと表明していた。デイビスはジャクソンに傾倒し、スターランニングバック、マーカス・アレンとデイビスの関係に大きな亀裂が生じた。のちにマーカス・アレンはレイダーズを去り、カンサスシティ・チーフスに移籍することになる。
1989年のシーズン、デイビスはヘッドコーチのマイク・シャナハンを解任し、レイダーズのラインマンだったアート・シェルを後任に据える。シェルは、近代NFL初のアフリカン・アメリカンのヘッドコーチとなった。シェルは1990年のシーズンでレイダーズをAFCチャンピオンシップに導いたが、バッファロー・ビルズに51対3と大敗した。
この敗戦後、チームは下降線を辿る。1990年代のプレイオフ出場は2回、3位以上の成績を収めたのは3回のみであった。1990年にボー・ジャクソンが引退の原因となる負傷、問題児のクォーターバック、トッド・マリノビッチの不祥事、1993年のマーカス・アレンの退団、殿堂入りディフェンダーのハウィー・ロングが1993年のシーズン後に引退と、レイダースの一時代は終わりを告げる。
1995年6月23日、アル・デイビスは、レイダーズの本拠地をオークランドに戻す旨の同意書にサインする。この移転は盛大な歓迎を受け、1995シーズン、チームは好調なスタートを切った。シーズン途中まで8勝2敗の好成績を収めるが、エースクォーターバックのジェフ・ホステトラーの負傷により、チームはシーズン終了まで6連敗を喫し、プレイオフ進出はならなかった。
1998年、アル・デイビスは、過去のチームプレイヤーからヘッドコーチを選任するという彼の慣習を曲げ (これはフランチャイズ史上2度目の例外だった)、フィラデルフィア・イーグルズのオフェンスコーディネーターだったジョン・グルーデンをヘッドコーチに迎える。グルーデンは、49ersのヘッドコーチビル・ウォルシュの元でアシスタントとしてキャリアを開始した人物だった。グルーデンの指揮の下、レイダーズは、それまでのシーズンには欠けていた規律を持ってプレーし始める。
2000年、グルーデン指揮の3度目のシーズン、チームはこの10年間で最高の成績を上げた。ベテランのクォーターバック、リッチ・ギャノンが率いるチームはシーズンで12勝4敗の成績を収め、AFCチャンピオンシップに進出したが、この年のスーパーボウルを制覇したボルチモア・レイブンズに3-16と敗れた。
レイダーズは、2001年シーズンの開幕前に、歴代最高記録を保持するレシーバージェリー・ライスを獲得した。シーズン成績は10勝6敗だったが、ディビジョナル・プレイオフで、その年のスーパーボウル覇者ニューイングランド・ペイトリオッツに敗れた。この試合は物議を醸した。激しい雪の中、ペイトリオッツのクォーターバックトム・ブレイディの明らかなファンブルをレイダーズのチャールズ・ウッドソンがリカバーしたのだが、レビューの結果、ファンブルではなくパス・インコンプリートと判定されたのである。
2001年シーズンの直後、レイダーズは、タンパベイ・バッカニアーズとの間で、ジョン・グルーデンを現金と将来のドラフト権と交換するという、異例のトレードを行った。後任には、グルーデンの下でレイダーズのオフェンスコーディネーター兼オフェンシブラインコーチを務めていた、ビル・キャラハンが指名された。この突然の異動劇の数ヶ月前から、マスコミでは、アル・デイビスとグルーデンが個人的にもビジネスの面でも袂を分かった、という憶測が流れていた。
2002年シーズンは11勝5敗の成績を収め、プレイオフのトップシードを確保する。チーム5度目のスーパーボウル出場を成し遂げ、ギャノンはNFLのMVPに選出された。レイダーズはこのスーパーボウル XXXVII で敗れるが、その対戦相手は、件のグルーデン率いるタンパベイ・バッカニアーズであった。
2003年、キャラハン2年目のシーズンは、4勝12敗に終わった (NFL最低記録タイ)。これは、前シーズンにスーパーボウルに出場したチームとしては、史上最悪のレコードである。シーズン中、キャラハンは、試合後の記者会見で、チームの低迷についてレイダーズの選手達とマスコミとを激しく非難した (nfl.comの試合記事 - 英語)。同年のレギュラーシーズン後、キャラハンは解雇され、ノーブ・ターナーがヘッドコーチに就任した。
ターナー就任1年目では、チームの運は好転しなかった。2004-2005シーズンは5勝11敗に終わり、2シーズン連続で負け越した。2005年のトレード解禁と同時に、レイダーズは、ミネソタ・バイキングズからプロボウル出場ワイドレシーバーのランディー・モスを獲得した (nfl.comのレイダーズのチームニュース - 英語)。2005年シーズンは、長年チームのエースクォーターバックを務めたギャノンが前年の首の怪我により引退したため、ギャノン抜きで戦うことになる。
[編集] 殿堂入り
- マーカス・アレン (2003) - 1982-1992
- フレッド・ビレトニコフ (1988) - 1965-1978
- ジョージ・ブランダ (1981) - 1967-1975
- ボブ・ブラウン (2004) - 1971-1973
- ウィリー・ブラウン (1984) - 1967-1978
- デイブ・キャスパー (2002) - 1974-1980、1984
- アル・デイビス (1992) - 1963-1965、1966-現在
- エリック・ディカーソン (1999) - 1992
- マイク・ヘインズ (1997) - 1983-1989
- テッド・ヘンドリクス (1990) - 1975-1983
- ジェームズ・ロフトン (2003) - 1987-1988
- ハウィー・ロング (2000) - 1981-1993
- ロニー・ロット (2000) - 1991-1992
- ロン・ミックス (1979) - 1971
- ジム・オット (1980) - 1960-1974
- アート・シェル (1989) - 1968-1982
- ジーン・アップショー (1987) - 1967-1981
[編集] 永久欠番
なし (レイダーズは過去の選手の背番号を永久欠番にすることはない)
[編集] 歴代ヘッドコーチ
- エディー・アーデラッツ (1960-61)
- マーティー・フェルドマン (1961-62)
- レッド・コンクライト (1962)
- アル・デイビス (1963-65)
- ジョン・ラウチ (1966-68)
- ジョン・マッデン (1969-78)
- トム・フローレス (1979-87)
- マイク・シャナハン (1988-89)
- アート・シェル (1989-94)
- マイク・ホワイト (1995-96)
- ジョー・ビューゲル (1997)
- ジョン・グルーデン (1998-2001)
- ビル・キャラハン (2002-2003)
- ノーブ・ターナー (2004-2005)
- アート・シェル (2006-現在)
[編集] 外部リンク
- オークランド・レイダーズ公式サイト - 英語