クリート・ボイヤー
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クリート・ボイヤー(Clete Leroy Boyer、1937年2月9日 - )はメジャーリーグと日本球界(大洋ホエールズ)で活躍したプロ野球選手。
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[編集] 来歴・人物
- メジャーリーグでも名前の知られた選手で1969年にはナ・リーグのゴールドグラブ賞(三塁手)を獲得している。
- 1960年から1964年にかけてヤンキースがア・リーグ5連覇をしたときの正三塁手。
- クロイド・ボイヤー、2000本安打を達成したケン・ボイヤーなどのメジャーリーガーはクリートの兄弟でその他の兄弟も6人全員がプロになっている、またクリートの息子のセルティス・ボイヤーも後にメジャーリーガーになっている。
- 本来であれば当時の日本でプレーするようなクラスの選手ではないが、1971年、在籍していたアトランタ・ブレーブスの首脳陣に対する批判を行い解雇され、メジャー他球団との契約をブレーブスによって阻害されたため独立リーグのハワイ・アイランダースでプレーしていた所、大洋の牛込惟浩スカウトが声をかけアメリカを見返すために入団した。なお、この時アイランダースにはジョン・シピンも在籍していた。
- 1972年に大洋に入団、打撃は外国人としてみれば低い方だがその打撃を補って余りある守備力を持ち1973年、1974年には連続してダイアモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を獲得している。当時、ボイヤー・シピン・米田慶三郎・松原誠の内野陣は12球団でも屈指の守備率を誇った。なお、日本では問題児として知られていたシピンも、米球界で雲の上の存在であったボイヤーの言う事にだけは絶対に逆らわなかったという。
- 1975年に引退した後も守備コーチとして大洋に残り、山下大輔や田代富雄を指導したことでも知られる。そして、ボイヤーの教えを受けた者が後にコーチとなって技術を伝承したため、大洋、横浜大洋、横浜を通じ、鉄壁の内野陣が代々継承されている。一部のファンはボイヤーがいなければ石井琢朗遊撃手や進藤達哉三塁手が球界を代表する堅守の内野手になることはありえず、彼らが中心的に役割を果たした1998年の横浜ベイスターズの日本一はなかったかも知れないとさえ言われており、球団の育成方針に絶大な影響を与えた。
- 1976年に守備コーチとして日本に残っているがその年自分の後継者としてゲーリー・ジェスターを入団させている。ゲーリー・ジェスターは1975年に日本ハムに入団し「ジェスター」の登録名でプレーしていたが、8本塁打などと成績が振るわず、その年限りで解雇されていた。しかしボイヤーの「俺の引退後の三塁のポジジョンは彼しかいない」との一言で入団にこぎつけている。大洋での登録名は「ゲーリー」。ゲーリー・ジェスターは大洋では20本塁打など、そこそこ活躍したが、ボイヤーが育てた田代富雄が三塁手として成長したため退団。ボイヤーもゲーリー・ジェスターと共に退団していった。
- 当時無名の選手であった高木嘉一が戦力外として解雇されようとしていたが、球団にかけあい、撤回させた。高木の素質を見ぬいていたボイヤーは、退団の際、高木に背番号6番を譲り渡した。
- 金銭面では高潔な人物で、大洋在籍中は年俸交渉を一切せず、「君らの評価通りの金額を書き込んでくれ」と言い残し、契約書には金額欄を白地のまま署名だけして帰国したという逸話がある。現代のように、プロスポーツ界に代理人交渉制度が普及していなかった時代ならではのエピソードと言えよう。
[編集] 略歴
[編集] 背番号(日本球界)
- 4(1972年)
- 6(1973年~75年)
[編集] 通算成績
生涯成績・個人記録
- メジャーリーグでの成績、通算16年(1955年~1971年)
- 1725試合 5780打数 1396安打 打率.242 162本塁打 654打点 41盗塁 37犠打 53犠飛 495四死球 931三振 198失策
- ゴールドグラブ賞 - 1969年(三塁手)
- 日本プロ野球での成績、通算4年(1972年~1975年)
- 419試合 1486打数 382安打 打率.257 71本塁打 218打点 1盗塁 5犠打 5犠飛 93四死球 181三振 45失策
- ダイアモンドグラブ賞 - 1973年~1974年(三塁手)