北海道日本ハムファイターズ
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北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、Hokkaido Nippon-Ham Fighters)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。本拠地は札幌ドーム(北海道札幌市)。準本拠地は函館オーシャンスタジアム・旭川スタルヒン球場・帯広の森野球場・釧路市民球場などの北海道内の野球場と2003年までの本拠地・東京ドーム。ファームの本拠地はファイターズスタジアム(千葉県鎌ケ谷市)。
チーム名 | 北海道日本ハムファイターズ |
加盟団体 | パシフィック・リーグ(1軍)、イースタン・リーグ(2軍) |
創設年度 | 1946年 |
チーム名の遍歴 | セネタース(1946年) →東急フライヤーズ(1947年) →急映フライヤーズ(1948年) →東急フライヤーズ(1949年~1953年) →東映フライヤーズ(1954年~1972年) →日拓ホームフライヤーズ(1973年) →日本ハムファイターズ(1974年~2003年) →北海道日本ハムファイターズ(2004年~) |
フランチャイズの遍歴 | 東京都(1952年~2003年)→北海道(2004年~) |
本拠地 | 札幌ドーム(1軍)、ファイターズスタジアム(2軍 千葉県) |
収容人員 | 43,473人(札幌ドーム。消防法にて定められている収容人数) |
オーナー | 大社啓二 |
親会社 | 日本ハム |
監督 | トレイ・ヒルマン |
タイトル | リーグ優勝:3回、日本一:2回、アジア一:1回 |
(優勝年度) | (リーグ戦)1962、1981、2006 (日本シリーズ)1962、2006 (アジアシリーズ)2006 |
プレーオフ | 3回 - 2勝1敗(太字は勝利した年) 1981、1982、2006 |
目次 |
[編集] 球団の歴史
[編集] セネタース・東急時代
- 1946年、戦前の東京セネタースの中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規にセネタース(法人名:セネタース野球協会)を設立。大下弘、飯島滋弥、白木義一郎など即戦力選手を集めたが、個人で立ち上げた球団だったため財政的に非常に厳しく、ユニフォームなど戦前の阪急のお下がりという状態だった。旧華族の西園寺公一(西園寺公望元首相の孫)をオーナーに付け、銀座のキャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登がスポンサーになったものの、結局資金不足に陥り横沢は球団経営を諦めざるを得なくなった。なお、東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と呼称している。これは東京ジャイアンツが「巨人」の愛称で呼ばれることを受けて鈴木惣太郎が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、大阪タイガースを「猛虎」、セネタースを「青鞜」、パシフィックを「太平」と命名した名残である。しかし他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため、定着しなかった(参照)。
- 翌1947年1月7日、東京急行電鉄にチームを売却。東急ベースボール倶楽部が発足し、チーム名を東急フライヤーズ(とうきゅう-)とした。当時の東急はまだ大東急の時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。専務の大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が球界屈指の人気選手となり多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。
- 1948年、プロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し、大塚アスレチックスと幾つかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映球団が経営に参加し球団名を東急大映野球、チーム名を急映フライヤーズ(きゅうえい-)に改称。しかし大映は金星スターズを別途買収する事が決まり(詳しくは大映ユニオンズの項目を参照)、フライヤーズの運営から手を引き球団名およびチーム名は1年で元に戻った。
- 1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。1953年9月、東急沿線の世田谷区駒沢公園に自前の駒沢球場が完成し、文京区の後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。
[編集] 東映・日拓時代
- 1954年2月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。東映は子会社の東映興業に球団を移管。チーム名を東映フライヤーズ(とうえい-)に、法人名を東映フライヤーズ野球団にそれぞれ変更。1972年まで19年間続いた(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。
- 1961年、水原茂が巨人の監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋を呼ぶ。水原とは飲み友達であった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで大川にも可愛がられていた。この招聘工作から俊藤は東映に深く食い込んでいく。
- 駒沢球場が1964年の東京オリンピックの整備計画のために取り壊されることを受けて、1962年に新宿区の明治神宮野球場に本拠地を移す(当時は学生野球優先がまだ残っていたことから、週末など日中に学生野球がある時は後楽園など他の球場を借りた)。同年、水原監督の下で土橋正幸、尾崎行雄の両エースが大車輪の活躍をし、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを破り念願の日本一に輝く。これが東映時代、更にチーム名「フライヤーズ」としても唯一の優勝となった。国鉄スワローズの神宮進出に伴い1964年に後楽園球場に舞い戻る。
- 張本勲、大杉勝男、白仁天、毒島章一、大下剛史ら強打者が揃っていたが、映画産業の斜陽や、「黒い霧事件」(1970年にはエースの森安敏明が永久追放を受けた)による人気低迷なども響いた上、1971年名物オーナーだった大川が急逝。東映はアンチ大川と目された岡田茂が社長に就任し、岡田の盟友で球団所有権を有する五島昇東急社長(強盗慶太の異名を取った五島慶太の長男。大川とは不仲とされた)と共に、大川色が強く不採算だった球団を手放した。
- 1973年2月7日に岡田・五島共通の知人で、首都圏で不動産産業展開する西村昭孝経営の日拓ホームに身売り。チーム名は日拓ホームフライヤーズ(にったく-)に改称。西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニホームを開発(後述)するなどして、球団運営にあらゆる新機軸を試みたが、結局不発に終わる。パ・リーグに将来は無いと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差し球団経営を放棄。同年終了後わずか1シーズンで日本ハムに身売りした。なお、日拓ホームがパチンコに進出したのは球団売却後の1976年である。
[編集] 日本ハム時代
- 1973年11月19日に日本ハムに売却。チーム名は日本ハムファイターズ(にっぽん-)、法人名は日本ハム球団株式会社になり、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任し、「フライヤーズ」のニックネームは27年で消滅した。ちなみに「ファイターズ」の名は公募による。名付け親となったのは岡山県の女子高生であり、「(当時在籍していた)大杉勝男選手(故人)がガッツがある、ファイターだから」というのが命名理由である(大杉は岡山県出身)。しかし、皮肉にも東映時代の主力はことごとくトレードされ、大杉もヤクルトに放出されてしまった。
- 1974年から1977年までの4年間はBクラスをさまよったが、1978年から1980年まで3年連続3位の後、1981年に大沢啓二監督指揮により東映時代から数えて2度目のリーグ優勝を飾る。優勝請負人といわれた江夏豊、15勝無敗の間柴茂有を中心とする投手陣、打撃陣ではトニー・ソレイタや柏原純一、トミー・クルーズらの活躍が光った。また同年の優勝メンバーは島田誠、菅野光夫、高代延博といった小兵選手が多かったのも特徴であった。
- この当時のフランチャイズは巨人と同様、後楽園球場であったがそれ故に日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセパ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(その当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくは無かった)という暗黙の決定があったが、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。そういった事で、日本ハムはプロ野球界におけるファンクラブの先駆け的な存在として他の10球団(当時は巨人・中日にはファンクラブが存在しなかった)の模範となっている。
- 前述の通り80年代はパリーグで突出した活躍をしたエースが多く、木田勇(1980年新人で22勝の成績、MVP・最多勝・新人王)、工藤幹夫(半期優勝した1982年に20勝)、津野浩(80年代中期に2桁勝利を含むチーム勝ち頭を数年記録し、開幕投手を務める)、柴田保光(技巧派でオールスター3度出場し1990年にはノーヒットノーラン記録)といった投手が活躍、特に西崎幸広は、新人にして2桁勝利・防御率2点台と大車輪の活躍をし(1987年の新人王こそ逃したが)以後も2桁勝利を重ね、若くしてその実績と、その華麗なフォームから投げる速球と甘いマスクで女性を中心に圧倒的な支持を受けた。
- 1988年から北海道移転の前年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用した。この頃になると西崎幸広や柴田保光らが投手王国を形成。 三たび大沢監督を迎えた1993年は1点を守りきる野球を確立するも怪我人に泣く。1996年には、あと一歩の所で、当時の上田利治監督が私用の休養で優勝を逃し、1998年からは東京ドームの特性を生かし、主砲ナイジェル・ウィルソン、ジェローム・ブルックス、田中幸雄、片岡篤史、西浦克拓、小笠原道大(当時は代打要員)らを擁するビッグバン打線の活躍により前半戦は首位を独走、チーム打撃成績も歴代のシーズン記録を更新するほどの破壊力であった。優勝間違いなしと思われたがシーズン後半、前半戦の打線の破壊力が鳴りを潜めてしまい歴史的な大失速で優勝を逃してしまう。
[編集] 北海道日本ハム時代
- 2002年開幕前に本拠地を札幌市に移す構想が表面化。同市の準本拠化を計画していた西武ライオンズ、東京のファイターズファン(とはいえ、首都東京にフランチャイズが無いリーグはいかがかといったもの)からの反発もあったが、他球団の公式戦試合も開催するという条件を付け2004年から本拠地を北海道の札幌ドームに移転。チーム名も北海道日本ハムファイターズとし、地域に密着したチーム作りを目指している。なお、本拠地移転及び、北海道の有力企業からの出資を受ける際、既存の球団会社(日本ハム球団株式会社)は新会社(株式会社北海道日本ハムファイターズ、2003年8月設立)へ球団運営権を譲渡し、旧会社は特別清算手続きをとっている。
- 当初反発していた西武が急に容認姿勢に転じたのは、巨人の渡邊恒雄オーナーが西武の堤義明オーナーに、日本ハムを北海道へ移転させることによって全国にプロ野球チームを分散させ、関東や関西に集中している残りの球団を合併などによってチーム数を減らし、1リーグ制へ移行しようと打診したからである。実は、2004年の球界再編問題は、大阪近鉄バファローズの命名権売却問題より前にここから始まっていたのである(逆に言えば、後述にあるように、日本ハムは札幌移転によって球界再編問題にパ・リーグの中では1リーグか2リーグかの問題、ストライキ後の処理を除いては唯一影響が全くなかった)。移転した当時、北海道民の反応は薄かったものの、プロ野球ファンからは「やっと自分達の球場を持てて、一本立ちした」と歓迎ムードだった(詳しくは東京ドーム#球場使用料参照)。
- その2004年はアメリカから帰って来た新庄剛志(登録名はSHINJO)、マイナーで2冠王に輝いたフェルナンド・セギノールを獲得。千葉ロッテマリーンズとプレーオフ(上位3チーム進出のトーナメント)出場枠を賭けた熾烈な終盤の争いを展開し、9月24日のオリックス・ブルーウェーブ戦の勝利で、移転したチームとしては初のAクラス(3位)となり、プレーオフ第1ステージの対西武戦に進出。松坂大輔相手に7得点(最終的にPO第1~3戦でPO史上最多の20得点を記録をする)するなど身終盤まで粘りに粘り、最終戦でも9回表に2点差をつけられていながら木元邦之のホームランで追いついたが、その裏にサヨナラ負けを喫し、北海道移転元年のリーグ優勝は叶わなかった。
- 札幌ドーム公式戦で、対象地域の道・市・区内在住者・在職者を対象に一塁側内野指定席券「なまらチケット」を一律1,500円にて発売している。また、午後7時半以降は一律子供料金の「730チケット」を発売している(2005年東京ドームでの公式戦でも「730チケット」を販売)。これらに加え、2005年からは全ての道民が対象の「なまら!超割チケット」、駐車券付きの「カルテット」、その名の通りビール券付きの「ビール券付き」等のグッズ付きチケット限定チケットも発売されている。その結果、札幌ドームではオープン戦、公式戦、消化試合に関わらずレフトスタンドが常に満員になるようになり、また本来ビジターチームの応援席であるライトスタンドもセンター寄りを中心に日本ハムファンで占められるようになった(交流戦での阪神タイガース戦は除く)。2005年には、久々に1993年以来の100万人を突破。1位のソフトバンクに次いで2位の観客動員となった。
- 2005年、元監督の高田繁が球団初のゼネラルマネージャーに就任。4月27日、大社義規元オーナーが死去。同オーナーの背番号100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めて永久欠番に。田中幸雄が通算1000打点、金子誠は通算1000本安打を達成した。9月20日の西武戦(札幌ドーム)に敗れ、2年連続のプレーオフ進出の可能性が消滅。オフには現役ベテランメジャーリーガーのホセ・マシーアスを獲得するも、ローテーションの一角だった入来祐作が渡米し、石井一久の獲得にも名乗りを挙げたが失敗。ドラフトでは八木智哉、武田勝らを獲得。また、2006年シーズン開幕直前に古城茂幸、実松一成とのトレードで巨人から岡島秀樹が移籍してきた。
- 一軍は長い間優勝できないでいたが、二軍は1994年、2002年2位、1997年、1999年、2003年、2004年は優勝と好成績を残している。
- 交流戦最終戦の6月20日の東京ヤクルト戦から、7月7日の西武戦まで、実に45年ぶりとなる11連勝(球団最多タイ記録)を記録。以降も大型連勝が多く、また一般的に言う取りこぼしをせず6連勝、7連勝を記録するなどの安定感を見せた。
- 西武・福岡ソフトバンクと熾烈な首位争いを繰り広げ、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定させた(交流戦の結果を除いた成績でも1位)。また、12球団で1位のチーム防御率3.05を誇った投手陣、チーム本塁打数も135本でリーグ1位の投打2冠を達成。
- 10月12日、プレーオフ第2ステージを2連勝で制し、25年ぶりにリーグ優勝。10月26日、中日ドラゴンズとの日本シリーズに4勝1敗の戦績で44年ぶりの日本一を手にした(GM制施行チーム、そしてもちろん札幌移転後としては初)。そして11月に、かつて本拠地とした東京ドームで行われたアジアシリーズでも優勝を飾る。
- 12月12日、毎日スポーツ人賞のグランプリを受賞。
- 12月20日、日本プロスポーツ協会から日本プロスポーツ殊勲賞を受賞。
- オフには小笠原・岡島がFA移籍、SHINJOが引退。ドラフトでは大学日本代表4番を打ったスラッガー・金子洋平らを獲得(ドラフト4位の長野久義は指名したが本人が拒否)。また新外国人としてアンディ・グリーン、ブライアン・スウィーニーと契約、東北楽天からライアン・グリンが移籍してきた。
[編集] チームの特徴
- 戦前の東京セネタースとは資本の面でも球団系統の面でも関係ない。ただし、セネタース・東急時代の項目にあるように、東京セネタースの後継を目指して設立された球団である。
- 1947年-1973年に使われた愛称「フライヤーズ」は鳥の英語表現から取った愛称だが、東京急行の「急行」の意も含むという説がある。ちなみに水原監督時代のホーム用ユニフォームは、「FLYERS」の「F」の部分が空を飛ぶ鳥の隠し絵になっていた。「フライヤーズ」の商標は現在も東映が保有しており、2007年現在は東映アニメーションの公式サイト内告知・イベントレポート欄で使用されている[1]。サイトの開設当初は隠し絵のロゴもそのまま使用されていた。また1974年から使われている「ファイターズ」は「闘士」の英語から取った。略号は「Fs」。
- 1962年にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神タイガースを破ったが、この時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。さらに「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。
- 監督はチームの生え抜き選手ではなく、他球団のOBが就任することが多かった。このため、生え抜き監督は大下弘と土橋正幸の2人しかいない。しかも大下はその後西鉄ライオンズで活躍し、土橋も日本ハム監督就任以前にヤクルトの監督に就任したこともあるので前身の東急、東映、日拓を含めてずっと同じチームでプレーし監督になった例はない。
- 後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、都市対抗野球による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神タイガースのいわゆる「死のロード(遠征)」に匹敵するものだった。特に、8月は子供が夏休みであるため家族連れが多く来る稼ぎ時として、巨人の試合が多く組まれ、日本ハムはロードを余儀なくされた。こうした経緯から同じ東京ドームを本拠地としていた、巨人ファンへの対抗心は強い。
- 2004年、専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームは既に2001年度からJリーグのコンサドーレ札幌がホームスタジアムとして使用していた(札幌厚別公園競技場と併用)。サッカーチームとプロ野球チームが同じ専用球場を使用する事例は日本はもとよりも、世界初のケースで(アメリカではメジャーリーグとアメリカンフットボール・NFLの本拠地を共有する事例がある)、球団事務所もそれぞれ札幌ドーム内に併設されている。2006年には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。
- 札幌ドームでは3塁側ベンチに座っている。これは施設のレイアウト面やアクセス面で3塁側の方が便利であることやスコアボードとして使用されている電光掲示板がライトスタンド上方にあり、3塁側・レフト側からの方が見易いといった事情から。ホームチームが3塁側ベンチに座るようになったのは日本では日本ハムが初である(ちなみに、東京ドーム等の他球場で主催試合を行う時は1塁側ベンチに座っている)。
- ファイターズはニューヨーク・ヤンキースとの交流やアリゾナ・ダイヤモンドバックスと業務提携など、比較的多くの外部接触を持っている。地元・北海道との関係についても、積極的な球団として知られている。北海道という広大な土地で、球団に親しんでもらおうという球団の意志の現れと捉えるべきであろう。その成果もあってか球場動員数は徐々に上昇傾向にある。ちなみに、ファイターズの球場外での活動としては以下のようなものが挙げられる。
- YOSAKOIソーラン祭り等の地域文化活動への参加
- OB、北海道出身選手による毎週末のコーチングキャラバン
- B.Bイベント出張
- ファンから年賀状を一般募集、選手と食事会
- 選手達の学校訪問
- 練習施設の一般公開
- HNFベースボール・クラブ(オフシーズン中に行う、中学3年を対象にした週1回の野球塾)
- オフィシャルショップ、レストラン建設
- 「旬感!北海道」という道中のJAと連携し、北海道の農産物をお取り寄せ、農家に還元というサイトを球団に設置
- 優勝したお礼行脚として、道内各地で選手のトークショーを開催(2006)
- 先述の「なまら!チケット」等の道民優遇特典
- また、東京時代にも先述のように公式ファンクラブを初めて設置、ギョロタンを着ぐるみにしたり、選手を野球以外でのメディア出演と色々新しい試みをしていた球団でもあり、自由なチームカラーがあると思われており、わずか3年でレフトスタンドをあふれ返す程の動員を達成したことから、他球団からの視察、真似た者も多い。例えば東北楽天ゴールデンイーグルスも「730チケット」に倣ったチケット「おばんですチケット」を販売、西武は「740チケット」、「なまら!超割チケット」に倣った、所沢市民応援デーを実施している。
- 日本ハムファイターズの4番打者は外国人を含め他球団(外国球界を含む)から移籍した選手が多い(小田義人〔ヤクルト〕、柏原純一〔南海〕、落合博満〔巨人〕、外国人では2000年のナイジェル・ウィルソン、1999年・2004年のシャーマン・オバンドー、2004年~はフェルナンド・セギノールなど)。80年以降半シーズン以上定着した生え抜きの4番打者は古屋英夫、田中幸雄を数えるのみである。
- 他球団からトレード、または戦力外となり移籍してきた選手が日本ハムで再生し、活躍することが多い。古くは74年にロッテから移籍した野村収、76年に巨人から移籍した高橋一三、78年に大洋から移籍した間柴茂有、84年に西武から移籍した柴田保光、1998~2002年の野口寿浩、2003年は坪井智哉、伊達昌司、2004年は横山道哉が活躍している(あえて言うなら、新庄剛志もである)や巨人よりも成績が爆発的に良くなった岡島秀樹、オリックスで振るわなかったフェルナンド・セギノール、意外にもヤクルト時代よりも成績が良くなった稲葉篤紀もこの類に入る)。
特にオールドファンには、V9巨人を一時期エースとして支えた高橋一三が故障を抱えたまま巨人から移籍し、81年に日本ハムが優勝した際に再生して中心選手として活躍したことが印象に強く、再生のイメージを担っている一因とも言える。 - 一方で、FA宣言の選手の獲得には若手の育成を優先するチームの方針と高年俸などのネックから消極的であった。近年はFA戦線に参入することもある。現在所属している選手でFAで獲得した選手は稲葉だけであるが、稲葉も当初は大リーグ入りを目指したものの、応じる球団がなく断念し、国内で唯一オファーがあった日本ハムに移籍したのである。
- 前身球団の時代も含め数多くのタイトルホルダーを生んでいるが、2006年のシーズンまで唯一盗塁王は誕生していない。パ・リーグの場合、広瀬叔功や福本豊がタイトルを保持し続けた期間が長く(大下剛史は広島移籍後の1975年に盗塁王となった)、張本勲・島田誠(ともに通算300盗塁を記録)らが阻まれたという不運や、チーム首脳部の俊足選手よりも長距離打者を好む傾向によるものとみられる(ちなみに本塁打王のタイトル獲得はリーグ最多回数)。現在、2004年以前のセパ12球団(近鉄バファローズを含む)では唯一の未経験チームとなっている。
- 90年代以来、「ビッグバン打線」を中心とした超攻撃型チームであり、投手陣に弱点を抱えていたが、2006年には「長打一発期待」から「犠打で送り、ヒットで確実に1点を入れる」いわゆるスモールベースボールを導入。これに元来の打線の強さ(特に長打力)が絡み、投手力もずば抜けた「究極の和洋折衷型野球」(命名・元球団OB岩本勉)となって実を結び、1981年以来25年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。ちなみに2005年に千葉ロッテマリーンズがリーグ優勝・日本一になり、楽天を除く11球団の中で最も優勝から遠ざかっていたが、2006年のリーグ優勝・日本一により現在は広島東洋カープがリーグ優勝(16年)、中日ドラゴンズが日本一(53年)から最も遠ざかっている。
- 2007年オフには小笠原・岡島がFA移籍、SHINJOが引退と大きな戦力ダウンとなったが、首脳部は外国人補充以外は消極的であり、選手の成長を待つ格好となっている。過去にも小笠原の様な球団の生え抜きの主力をFAやトレードで放出(片岡や古屋、西崎)しており、ファンのフロントへの不信感は増す一方である。島田統括部長の手腕が疑われている一方、オーナーの小笠原に対しての「俺は敗戦処理かな」など簡単に移籍を容認する発言に多くのファンは苛立っている。
[編集] 応援スタイル
- 1980年代前半のまだトランペット使用でない頃の応援スタイルは、どの選手にも笛と太鼓で「ピーッピーッピピピピピピピッ」という決まりのものであった。しかし柏原純一にだけは「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった。(ちなみにこのスタイルは、同選手が阪神へトレード後も阪神の応援団が継承した。)
- 現在の公式応援歌「Go! Go! ファイターズ」では、香瑠鼓による鳴子を振り付けに用いることがある。7回裏、ファイターズ攻撃前にはマスコットのB・Bが登場し、スタンドの観客を率いて踊る。振り付けはYOSAKOIソーラン風で覚えやすく、スタンドでも踊りやすい。2006年は、YOSAKOIソーラン色を薄めた新しい振り付けになった。鳴子は、札幌ドームや北海道内のローソン、ジャスコ等で入手する場合が多いようである。なお「Go! Go! ファイターズ」の歌い手は「ミスターYOSAKOIソーラン」こと宮本毅である。
- なお、従来のメイン応援歌「ファイターズ讃歌」も引き続き歌われている。歌い手としてはささきいさおが起用されたこともあり、2000年以降は速水けんたろうが歌っている。
- 応援スタイルは各選手別応援歌を歌う(用意されていない選手は汎用応援歌の選手部分を差し替えて歌う)。2005年からは交流戦に備えて投手用の応援歌ができた。原則的には1回目は演奏なしだが、小笠原道大などファンファーレのある場合はそれに続けて演奏ありで歌う。SHINJO、田中賢介などのように選手コールの後トランペット応援が始まる選手もいる。非公式ではあるが、一部の選手には応援歌に合わせたアクションをすることもある。札幌移転後、大半の選手別応援歌を除いて応援スタイルがやや変わった。攻撃開始やチャンスには「北の国から」得点が入った時のテーマが「お~い、北海道」など地元をイメージした応援歌になっている。
- 相手投手がノックアウトで降板するときは「贈る言葉」を合唱し、ヒルマン時代になると「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」を歌っている(ホームゲームのみ)。
- 札幌ドームの試合では、稲葉篤紀選手の場合のみ入場曲(クイーンの"I WAS BORN TO LOVE YOU")が流れているときは応援バットを上に掲げ振り回す。さらに稲葉選手がチャンス時に打席に立つとファンファーレに乗ってジャンプして応援するが、その時に起こる振動でバックスクリーンに設置されたカメラが揺れて、テレビに映る映像も揺れるため、実況アナウンサーが「これはテレビが壊れたのではありません。球場が揺れているんです!」と言ったことがある。ジャンプ自体は田中幸雄等の応援でも行われるが、その場合もやはり大きなゆれを起こす。
- 試合後、日本ハムが勝利した場合に電光掲示板のカウントダウンともにスタンド最上段から銀色の紙テープがバズーカで発射され、ゆっくりと舞い降りて勝利を祝う。ちなみに移転初年度の2004年は紙吹雪を発射していたが、掃除に手間がかかることなどから2005年に廃止された。しかし勝利セレモニー復活の希望が多かったため、現在のスタイルになった(札幌ドームのみ。東京ドームでは行われない)。
- 小笠原、セギノールの打席ではイルカ、バナナの風船を使って応援している。
- 2006年から、7回の表には各球団を揶揄した映像を流している。以下は一例であり、ここに挙げたもの以外の映像が流れたこともある。
- 西武ライオンズ - ライオンが猫になる
- 福岡ソフトバンクホークス - 飛んでいる鷹がいつの間にかB・Bが持っている鳥かごに入ってしまう
- 千葉ロッテマリーンズ
- オリックス・バファローズ - 暴走する牛が4球団のマークを突き飛ばすが、ファイターズのマークだけは突き飛ばせない
- 東北楽天ゴールデンイーグルス - 野村監督が流鏑馬でファイターズのマークを射るが、外してしまう。居眠りをして胴上げされる夢を見るが、実際はヒルマン監督が胴上げされている(おまけにそれが最終的に正夢に)
- 中日ドラゴンズ - 名古屋城のしゃちほこの顔がB・Bになっている
- 阪神タイガース - 紙相撲でタイガースとファイターズのマークを付けた力士が戦い、ファイターズが勝利、ファイターズのマークが付いた座布団が舞う
- 東京ヤクルトスワローズ - 最初たくさんの傘が上下に踊る画像が流れ、それらを上から見た画像がズームアウトすると"FIGHTERS"の文字が見える
- 読売ジャイアンツ - インベーダーゲームに似た映像が流れ、B・BがUFOから発射した弾で自機がやられてゲームオーバーになるが、"GAME OVER"の「G」がジャイアンツのロゴの「G」になっている
- 広島東洋カープ - 1塁ベースを投げるブラウン監督の映像を映し、「ベースの行方にご注意ください」というメッセージを流す
- 横浜ベイスターズ - 横浜の夜景に輝く星にどこからかファイターズのマークが飛んでぶつかり、星がファイターズのマークでもある七芒星になる
- ファイターズガール(公式チアガール)のレプリカユニフォームを球団が販売している。ファイターズガールのユニフォームに似せた服を娘に着せて応援していた、ある家族連れの姿が、グッズとしてのレプリカユニフォームを製作するきっかけになったとされる。
[編集] チーム成績・記録
- リーグ優勝 3回
- (1962年、1981年、2006年)
- 日本一 2回
- (1962年、2006年)
- アジアチャンピオン 1回
- (2006年)
- Aクラス 28回
- (1959年、1961年-1967年、1978年-1983年、1987年-1988年、1993年、1996年、1998年、2000年、2004年、2006年)
- Bクラス 32回
- (1946年-1958年、1960年、1968年-1977年、1984年-1986年、1989年-1992年、1994年-1995年、1997年、1999年、2001年-2003年、2005年)
- 後期優勝 2回=1981年後期、1982年後期
- レギュラーシーズン1位 1回=2006年
- 最長連勝 11連勝(1961年、2006年)
- 最多勝 83勝(1961年)
- 最多敗 80敗(1956年)
- 最多引分 13分(1984年)
- 最高勝率 .642(1961年)
- 最低勝率 .364(1955年)
- 連続Aクラス入り 10年(1961年-1970年)
- 連続Bクラス入り 13年(1946年-1958年)
- ※1981年の優勝はロッテとのプレーオフによる
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1962年)
- 最大ゲーム差 48.0ゲーム(1956年)
- 最多本塁打 178本(2004年)
- 最小本塁打 40本(1955年)
- 最高打率 .281(2004年)
- 最低打率 .216(1956年)
- 最高防御率 2.39(1961年)
- 最低防御率 4.98(1984年)
- 5者連続本塁打
- プロ野球最高記録
[編集] 歴代本拠地
- 1948年-1953年 後楽園球場(※1)
- 1953年-1961年 駒沢球場(※1)
- 1962年-1963年 明治神宮野球場(※2)
- 1964年-1987年 後楽園球場
- 1988年-2003年 東京ドーム
- 2004年- 札幌ドーム
- ※1 1953年8月まで後楽園球場を使用、同年9月より駒沢球場へ移転。
- ※2 学生野球などで使用できない場合は後楽園などを使用した。
[編集] 歴代監督
- 横沢三郎(1946年)※1
- 苅田久徳(1947年-1948年)※2 ※3
- 井野川利春(1949年-1950年【第1次】)
- 安藤忍(1951年)
- 井野川利春(1952年-1954年【第2次】)※4
- 保井浩一(1955年)
- 岩本義行(1956年-1960年)※5
- 水原茂(1961年-1967年)
- 大下弘(1968年)※6
- 松木謙治郎(1969年-1970年)
- 田宮謙次郎(1970年-1973年)※7
- 土橋正幸(1973年【第1次】)
- 中西太(1974年-1975年)※8
- 大沢啓二(1976年-1983年【第1次】)
- 植村義信(1984年)※9
- 大沢啓二(1984年【第2次】)
- 高田繁(1985年-1988年)
- 近藤貞雄(1989年-1991年)
- 土橋正幸(1992年【第2次】)
- 大沢啓二(1993年-1994年【第3次】)
- 上田利治(1995年-1999年)※10
- 大島康徳(2000年-2002年)
- トレイ・ヒルマン(2003年-)※11 ※12
- ※1 この年のみセネタース
- ※2 ここから東急フライヤーズ
- ※3 1948年のみ急映フライヤーズ
- ※4 ここから東映フライヤーズ
- ※5 1960年は前半戦まで指揮、残り試合は保井浩一が代行
- ※6 1968年は8月4日まで指揮、残り試合は飯島滋弥が代行
- ※7 ここから日拓ホームフライヤーズ
- ※8 ここから日本ハムファイターズ
- ※9 1984年は6月26日まで指揮、6月28日までは矢頭高雄が代行
- ※10 1996年は9月9日まで指揮、残り試合は住友平が代行
- ※11 ここから北海道日本ハムファイターズ
- ※12 2005年は7月18日から28日までの6試合を白井一幸が代行
[編集] 主な出資企業
元々の出資企業である日本ハムの他、北海道内の主要企業が出資している。
[編集] ゼネラルパートナー
[編集] グランドパートナー
[編集] ユニフォームの変遷
ユニフォームの変遷は次の通り。
- 1946年 最初のユニフォームは阪急からのお下がりで、阪急の「H」マークに変わりセネタースの「S」のマークを付けた。
- 1947年 球団名が東急フライヤーズとなり、「Flyers」のロゴが登場。現在のビジター用にあたるグレーのユニフォームには親会社の「TOKYU」のロゴが入っていた。
- 1948年~1949年 大映球団と合併し急映フライヤーズとなる。大リーグで使われていたジッパーユニフォームが登場。ビジター用は「FLYERS」で縁取りがブルー。
- 1949年 球団が東急フライヤーズに戻り、ジッパーのロゴは親会社の「T.K.K」に変更。熊のマスコットが描かれている。
- 1950年 2リーグ分裂を機にロゴを変更。左から右に寄るスタイルとアーチ型の2種類があった。
- 1951年~1952年 ヤンキースを参考にしたユニフォームが登場。また、縦縞初が登場。ビジター用は「TOKYO」。1954年に「TOEI」となるがデザインはそのまま。
- 1953年~1960年 東急時代の晩年から東映の初期に使われたユニフォームのロゴと縁取りは濃紺とオレンジ。1954年から球団が東映となる。ビジター用のロゴを「TOEI」に変更。
- 1961年~1967年 水原監督就任に伴い、こげ茶とオレンジがチームカラーとなる。ホーム・ビジター両方の左袖には親会社の東映マークに「TOEI」のアルファベット。ビジター用の胸ロゴが「TOKYO」に変更。
- 1967年 後半戦から、ビジター用ユニフォームが変更。地色が水色で、胸ロゴが「TOEI」となる。
- 1968年~1971年 赤とブルーのユニフォームに変更。ロゴが「Flyers」となり、戦後すぐに使われていた書体が復活。1969年ロゴの色をマイナーチェンジ。
- 1972年~1973年 ベルトレスのユニフォームが登場。1973年に球団名が日拓に変更され一部マイナーチェンジが行われる。同年の後期に7色ユニフォームが登場し、世間を驚かせた。
- 1974年 日本ハムファイターズとなりロゴも「Fighters」に変更。ネイビーと赤が基本のベルトレスが登場したが、ビジター用のスカイブルーが鮮やかすぎ、更に背番号の丸文字が可愛い印象を与えてしまい、選手の評判が悪く前期限りで廃止。
- 1974年~1981年 ユニフォームを縦縞に変更。1975年にはラインがオレンジ一色となり、1979年にはベルト式に。また、ビジター用の「NipponHam」のロゴをオレンジに変更。
- 1982年~1992年 優勝の褒美としてアストロズのレインボー・カラーを参考にしたデザインに変わる。帽子・アンダーシャツ・ストッキングがオレンジに変更され、派手な印象を受ける。1988年に帽子の前面部が白くなる。
- 1993年~2003年 大沢監督の復帰とともにデザインを縦縞に変更。東映時代の1972年以来使われてきたプルオーバーを廃止しボタン式を復活。2001年からは親会社の広告が入るようになる。
- 2004年~ 札幌移転に伴い、北海道日本ハムファイターズに改称。同時にユニフォームを一新。袖や襟に青・金色のラインが入り、右肩はベースの色と同じだが左肩のみ黒で、プロ野球初の左右非対称デザインである。また、移転と共に胸番号を廃止する。2006年からはユニフォームスポンサーのホクレンのロゴが右肩に入った。
[編集] 永久欠番
- 100 大社義規(日本ハム球団初代オーナー)
準永久欠番
- 86 大沢啓二(元監督。球団史上、他者の着用がない。)
[編集] マスコット
- 球団マスコットはブリスキー・ザ・ベアー、愛称「B.B(ビー・ビー)」。モチーフは熊。背番号212は球団発足当時の北海道の市町村数にちなむ。その後市町村合併により2006年3月31日には180市町村となったが当面背番号は現行のままだが、「B.B」自体は2004年の北海道移転と同時に誕生の後、2005年、2007年にモデルチェンジを繰り返している。
- また東京ドームでの主催試合限定で旧来のマスコット・ファイティーも登場していたが、B.Bの普及のため2005年8月17日の東北楽天戦を最後にマスコットとしての役割を卒業した(ちなみに、ファイティーは全球団マスコットの中で唯一ユニフォームの裾を出しているマスコットだった)。
- ファイティーの前は太陽をモチーフにした「ギョロタン」、これは日本のプロ野球で初めて着ぐるみになったマスコットである(名前の由来は「ギョロ目のタン吉」から)。そのあと、ファイティーまでの間、マスコットを務めたのは翼をつけた戦士にバットとヘルメットをつけた「ファイトくん」と動物の着ぐるみ数体(名前不明)が場を盛り上げた。
- 2006年からは二軍戦限定でB.Bの弟分のマスコット「カビー・ザ・ベアー(CUBBY THE BEAR)」が登場。ユニフォームの背中には「C★B」と書かれているが、愛称は「カビー」である。背番号はない。ちなみに、英語の"CUB"には「子供の熊」という意味がある。
[編集] 歴代の球団歌
- 「それゆけ ぼくらのファイターズ」(作詞・作曲:石原美代子、補作詞・補作曲:中村泰士、編曲:高田 弘、歌:ささきいさお)
- 「ファイターズ讃歌」(作詞:石原信一、作曲:中村泰士、編曲:高田 弘、歌:ささきいさお、速水けんたろう)
- 「熱血ファイターズの歌」(作詞・作曲・歌:山本正之)
- 「熱血ファイターズの歌2002」(作詞・作曲・歌:山本正之)
- 「輝け未来へ~Hit & Run~」(作詞:門屋陽平・速水けんたろう、作曲:石川寛門・速水けんたろう、編曲:石川寛門、歌:速水けんたろう)
- 「Go! Go! ファイターズ」(作詞・作曲・編曲:大島隆二、歌:宮本毅)
[編集] 主なキャンプ地
[編集] キーワード
[編集] 深夜のダブルヘッダー
東急時代の1953年8月9日、近鉄戦ダブルヘッダー(後楽園球場)は、17時から開始された第1試合が延長20回・4時間46分(4-5で敗戦。当時は同一カードのダブルヘッダー第1試合については試合回数制限なし。変則ダブルの場合は12回まで)もかかり、第2試合の試合開始は22:11スタートだった。この第2試合は7回の攻撃が終了した時点で当時のナイターの時限であった23:45が過ぎたのでコールドゲーム(4-4の引き分け)となった(当時は深夜の時限が来た場合、9回まで終了しなくても、そのイニングの攻撃完了でコールドとなったルールがあった)。
チーム名が東映に変わった翌1954年、10月10日に行われた近鉄戦(大阪球場)で、今度は延長23回のパ・リーグ延長イニングス記録を作った。この時は近鉄に0-1のサヨナラ負けを喫している。また1981年のプレーオフ・ロッテ戦の第1試合(10月10日川崎球場でのビジター、9回5-5の引き分け)では参考記録ながら5時間17分のロングゲームを戦った。
[編集] 日本シリーズ2人のMVP
1962年の日本シリーズで阪神を4勝2敗1分けで下して優勝したが、MVPは異例の2名選出(土橋正幸投手と種茂雅之捕手)となった。この時はMVPの賞品が協賛スポンサーの関係から多くなったことや、両選手のバッテリーの活躍が優勝に大きく影響したのではないかともいわれている。土橋には自動車、種茂には家電製品が分け合えられたという。この「MVP2名選出」はこの年だけだった。
[編集] 7色のユニフォーム
1973年2月に東映フライヤーズを買収した日拓ホーム。西村昭孝オーナーは、低迷するパ・リーグに活気を取り戻そうと、この年の後期リーグで7種類のユニフォームを製作、日替わりで着用するという画期的な試みを行った(ちなみに前期に使用したユニフォームは基本的に東映時代のデザインを踏襲したものだが、袖や襟のラインに使われた赤と青が入れ替わるなど、若干のマイナーチェンジが施されていた)。その7種類とは
- 全身がオレンジで、袖にラインが入る
- 肩から袖の下、パンツに至るオレンジの太いラインが入る
- 上着がセパレートタイプで、上が紫、下が白
- 袖がブルーでロゴが赤く、背番号の後ろに太いラインが入る
- 全身が黄色で、肩・パンツに黒いライン
- 全身が黒で、袖の下からパンツに至る太い黄色のライン
- 全身が青で、肩に太いラインが入り、パンツのラインが白
というものだった。だがシーズン終了後、日本ハムに再身売りしたためこの7色のユニホームはわずか3ヶ月強でお蔵入りとなってしまった。ちなみに前半4種類がホーム用、後半3種類がビジター用である。
また、このユニフォームはセ・リーグの巨人、阪神、中日を意識しており、それぞれのファンからは「パクリ」と言われたというエピソードもあった。
当時のチーム在籍者からはこんな証言も得られている。
- 土橋正幸監督「ダブルヘッダーの第1試合で勝ったユニフォームをゲン担ぎのため第2試合でも着ようと思っていたら、球団から『せっかく7種類も作ったんだから別のユニフォームで戦ってほしい』と言われた」
- 新美敏投手「先発ローテーションに入っていたので、どれか忘れたが1種類だけ着ていないユニフォームがある」
- 千藤三樹男外野手「球団で予備のユニフォームを用意していたため番号違いで試合に出た選手はいたかもしれないが、どのユニフォームを着るか選手の間で混乱したという覚えはない。それよりも当時は阪急が優勝争いに加わっていたので、西宮球場での阪急戦では、悪役に徹するために黒いユニフォームで試合をしたことが印象に残っている」
ちなみにえのきどいちろうは当時福岡県久留米市在住の中学生で、夏休みに友人とともに平和台球場に太平洋クラブライオンズ戦を見に行った際、黄色いユニフォームを着た張本勲の強烈な存在感がきっかけでフライヤーズファンになったという。
[編集] 全ポジションを守った選手
1974年9月29日の南海戦(後楽園)で、高橋博士捕手が「1試合で全ポジションを守る」という日本球界初の珍記録を作った。
当時、後期リーグはロッテが優勝を決めた後なので、いわば消化試合。そこで折角応援してくれているファンのためのサービスの一環として中西太監督は、内野手の経験も持つ高橋に全ポジション挑戦をするように企画した。
1回から一塁手→捕手→三塁手→遊撃手→二塁手→左翼手→中堅手→右翼手→投手の順番でポジショニング。特に投手は初経験だったので不安もあったが、対戦相手が投手の野崎恒男だった。カウント1ストライク2ボールからセンターフライに仕留めたところで「投手は1人だけで充分」と降板した。
ちなみに選手生活を通して全ポジションを守った選手としては2000年には五十嵐章人(当時オリックス)が達成している。また1991年から1994年まで日本ハムに在籍していた木村拓也(広島→巨人)が、投手を経験すれば3人目の記録達成者となる。
[編集] オールスター組織票問題
1978年のオールスターゲームのファン投票で、パ・リーグの9ポジションのうち8人を日本ハム勢で占めた(投手:高橋直樹、捕手:加藤俊夫、一塁手:柏原純一、二塁手:富田勝、三塁手:古屋英夫、遊撃手:菅野光夫、外野手:ボビー・ミッチェル、千藤三樹男。外野手の残り1枠は阪急・福本豊)。原因はファンクラブ「少年ファイターズの会」による呼びかけであることが発覚したが、この年の前期の日本ハムは3位ながら29勝31敗5分けと負け越したことからファンからの批判が続出。このため事態を重く見た球団側は古屋と菅野の出場辞退を発表した。ちなみに古屋は翌1979年にオールスター初出場を果たしたが、菅野は結局オールスターに出場することはできなかった。
[編集] 野球用具未着事件
1979年7月13日、この日の日本ハムの対戦相手・南海は、前日近鉄と日生球場でナイターを行い、当日移動で後楽園球場で試合に臨む予定になっていた。
ところが、選手の野球用具が東名高速道路日本坂トンネル(静岡県)で発生した火災事故による大渋滞に巻き込まれなかなか到着せず、代わりの野球用具を調達することも出来ないのでやむなく試合を中止した。
[編集] 後楽園シリーズ
1981年の日本シリーズでは、藤田元司監督率いる巨人と対戦。同じ後楽園球場を本拠地にするチーム同士の対戦となり、史上初めて全試合同一球場で行われたシリーズとなった(ちなみにこのシリーズの第1戦の始球式は当時の東京都知事・鈴木俊一)。東京ドーム移転後も2003年までは同一球場シリーズが開催される可能性があったが、2004年に本拠地を札幌に移転したため、今後行われる見込みはない。
[編集] 雨中のベースランニング
ファイターズの助っ人外国人として活躍したマット・ウィンタース(現・ファイターズ駐米スカウト)が魅せたパフォーマンス。根っからのエンターテイナーであり、試合前にマジックを披露したりユニフォームを上下逆に着て逆立ちのフリをしたり、カツラを被ってチアガールに扮したりしていたが、西武球場の対西武戦が雨でノーゲームになった時のこと。ノーゲーム決定の数分後、ウィンタースが突如球場内に登場。雨が降りしきる中、パントマイムでホームラン。ガッツポーズをし、ダイヤモンドを一周。マットの敷かれているホームへ水しぶきをあげてヘッドスライディング。帰ろうとする観客からヤンヤの歓声を浴びた。この模様が珍プレー好プレーを通じて全球団に知れ渡り、誰でも簡単にやれる事から雨天中止・ノーゲーム時の恒例パフォーマンスとなっている。(注:それ以前にも広島に在籍したマイク・デュプリー(1980年)などが同様のパフォーマンスをしたことがある。しかし、その少し後に当時巨人の監督だった王貞治が、中畑清がやりたがっているという話を聞かされて「やってもいいがケガをしたら罰金を取りますよ」と話したりしたように、当時はこうしたパフォーマンスをおおっぴらに認める空気ではなかった)
[編集] 北海道移転後の東京ドームの公式戦
北海道に移転した後も、年間で概ね3カード10試合前後の主催ゲームを引き続き東京ドームで開催している。これは東京にも球団事務所があること、および旧来の在京ファンの存在を考慮したもの。しかし日本ハムの本拠地ではなくなったことで、パの他球団も東京ドームに進出。移転初年度の2004年シーズンはダイエーが1試合、オリックスが2試合の主催ゲームを開催した。このうちオリックス主催分は対戦相手が日本ハムだったため、東京ドームの公式戦で初めて三塁側のダッグアウトを使用した。ただし前身の後楽園球場を含めオープン戦、及び1981年の日本シリーズなどでは巨人-日本ハム戦で使用した例が多数ある。また2005年は日本ハムが10試合、オリックスが2試合開催した。2006年は日本ハムの主催ゲームが9試合開催され、2007年は8試合開催される予定だが、東京ドームでの公式戦は年々減少傾向にある。そのため、在京ファンへの配慮として2006年の東京ドームでのオープン戦を従来はデーゲームで開催されていたものを全てナイター開催とした(札幌ドームでも平日の球団主催オープン戦を3月21日以外すべてナイター開催)。余談ではあるが、札幌移転後も東京の応援団は存続している。これは東京ドームだけではなく、西武ドーム、千葉マリンスタジアム、神宮球場、横浜スタジアムでも応援するためである。このため在京ファンには馴染み深い移転前の応援スタイルが使われる場合がある。ちなみに、2006年のアジアシリーズでも移転前の応援スタイルが使われた。他にも、2005年には日本ハムが東京ドーム、その裏で巨人が札幌シリーズを開催し、事実上、本拠地を交換したようなこともあった。なお、東京ドームでの西武戦は西武が東京ドームでの日本ハム主催試合を拒否しているため行われていない。これは、札幌ドーム移転での因縁も少なからずあるのだろう。
[編集] 異業のスタッフ
ファイターズは球団改革で広く人材を求めている。例えば2006年1月からスカウトに就任した大渕隆はプロ経験がなく、新潟県の高校教諭から異例の転身を果たしている。県立西川竹園高校野球部監督時代、部員が満足に集まらず、本格的な指導はできなかったが、県外強豪校のデータを分析し、リポートを作成するなど精力的に活動した。米大リーグやキューバ球界の知識も豊富である。
また2006年から球団社長に就任し、常務執行役員兼事業本部長の藤井純一はJリーグ・セレッソ大阪の社長であり、「プロ野球」と「Jリーグ」の国内2大スポーツの球団、クラブのトップを務めるのは異例である。1997年に日本ハムが出資しているC大阪へ出向。クラブ経営を黒字に転換させた実績を買われ、球団社長に抜てき、常日頃から慢性的な赤字が当然のプロ野球の球団経営に対して「あり得ない」と批判し、社長就任を要望した。球団の各部署のグループ化を推進して細分化し、担当業務を明確にするなど改革に意欲を見せてきた。すでに実行委員会に出席し、オーナー代行らとともに、球団代表としての業務も積極的に行っている。
[編集] 敬遠球をホームラン
1981年の西武戦(平和台球場)で、主砲の柏原純一は永射保から敬遠の球を打ちホームランにした。後に彼が阪神の打撃コーチを務めていた時、新庄剛志(当時阪神)が同様に槙原寛己(巨人)の敬遠球をサヨナラヒットにしている。ヒーローインタビューで新庄は「柏原コーチとずっと練習していました」と語っていた。
[編集] 延長継投ノーヒットノーラン
2006年4月15日のソフトバンク戦(ヤフードーム)で、先発の左腕・八木智哉はソフトバンク打線を9回まで無安打無得点に抑えたが味方打線の援護がなく、試合は延長戦に突入した。八木は10回裏も無安打無得点で切り抜けるとそのまま降板したが、11回裏は武田久が、12回裏はMICHEALが安打と得点を許さず、試合は12回表に取った1点を守りきって、日本ハムが勝利した。
八木自身にはノーヒットノーランどころか白星すら付かなかったが、武田・MICHEALとともに日本プロ野球では1941年以来65年振りの「継投によるノーヒットノーラン」を達成した。過去の「継投によるノーヒットノーラン」はいずれも9回までに2人の投手によって成し遂げられており、延長戦かつ3投手の継投で達成したのは史上初の快挙である。
[編集] HAMの方程式
2006年のシーズン、ファイターズは12球団トップのチーム防御率3点台前半を記録する。この年はチームの若きエース・ダルビッシュ有や、新人王・八木智哉などの先発陣の活躍も光ったが、ここまでチーム防御率が良くなったのはリリーフ陣にある。特にリリーフ陣の中核を担った武田久とマイケル中村の2人の名前を取って(久のHとマイケルのM、そして&のAを取ってHAM)と言う。武田久は球団新記録である75試合登板(両リーグ歴代5位)を記録し、更にリーグダントツのHP数で最優秀中継ぎ投手に、マイケルはリーグ新の39セーブ(パリーグ史上最高記録)を記録し、最多セーブ投手に輝く。06年に優勝したのは大技・小技を絡めた新しいビッグバン打線の活躍、そしてそれ以外の投手陣の力と言われているが、この2人の優勝への貢献度は計り知れない物がある。 また、岡島が登板した日は彼を含め(武田のT、岡島のO、マイケルのM)TOM(トム)とも呼ばれていた。
[編集] 変則2連戦
2006年7月29日と翌30日に行われた福岡ソフトバンクホークスとの対戦は、札幌ドームがSMAPのコンサートで使用できなかったこともあり、29日は函館オーシャンスタジアム、30日は東京ドームに移動して2連戦をこなした。
このように、距離の離れた2都市で同じ対戦カードの連戦が行われる事例は、シーズン終盤の予備日でホームとビジターが入れ替わる場合を除けば、2004年6月15日・翌16日の福岡ダイエーホークス対大阪近鉄バファローズの2連戦(15日が東京ドーム、16日が福岡ドーム)以来のケースである(福岡ソフトバンクの当該項参照)。
また、似た事例で2005年9月13日・15日の読売ジャイアンツ対阪神タイガース(13日は長崎県営野球場(ビッグNスタジアム)、15日は東京ドーム)もあるが、こちらの方は間に1日移動日があったので、完全な連戦ではない。
[編集] イルカとバナナによるレフトスタンド席取り問題
前述のように2006年から小笠原の応援でイルカ、セギノールの応援でバナナの風船を膨らませて応援している。この応援方式に対して他の観客から「風船を上に掲げた際に試合が見えない」という苦情が出た。また、「フィールドに近い前の方の外野席へ、イルカとバナナを座席確保の目的で試合前に置いている一部の観客がいる為、いつも前の方で試合が見られない」という苦情もあり、こちらはニュース等でも取り上げられ、球団側も何らかの対策を取る必要を認識した。球団側としても、アナウンス、マスコミを通じて風船を使用する際には節度をもってという注意をよびかけているが、あまり改善の余地は見られていない。2006年シーズン終了後、翌2007年シーズンから外野席の前から3列を自由席から指定席に変更して、外野席の前方での席取りを抑制しようという対策を講じた。また球場の全席指定席化という意見もあったようだ[要出典]。2006年シーズン末をもって小笠原が巨人に移籍、セギノールの再契約も先行きが不透明だったため、風船問題については解決する可能性があった。しかし2007年に入りセギノールと再契約することになったため、バナナの風船問題については今後も対策が必要になる。
[編集] ファイターズ応援番組
[編集] テレビ
[編集] 北海道内
[編集] NHK札幌放送局
- ほくほくテレビ内ほくほくスポーツ
[編集] HBC北海道放送
[編集] STV札幌テレビ放送
- ぞっこん!スポーツ
- ファイトF(ファイターズ)
[編集] HTB北海道テレビ放送
[編集] uhb北海道文化放送
- スポーツワイド Fの炎~SPORT HOKKAIDO~
- ファイコンEXP.
- えき☆スタ発
- のりゆきのトークDE北海道
- uhbスーパーニュース
- YASUのえき☆スタ@noon→土曜えき☆スタUP→えき☆スタ1(終了)
上記の他自社製作番組内でファイターズコーナーあり
[編集] TVhテレビ北海道
- おばんでスタ!内おばんでスタ!GOGOファイターズ(終了)
- 現在はファイターズ戦の中継のみ
※道内の地上波局が全てファイターズ主催試合の放映権を持っているのも特筆すべき点である。中でもTVhが一番力を入れている。但し、TVhは札幌・旭川・函館・室蘭を中心にした北海道中央部の大部分と南部全域、北部の一部でしか見られず、帯広・北見・釧路・稚内を中心にした東部全域、北部の一部では見られないことから、これらの地域の視聴者からの苦情がは少なくない。特に2006年のプレーオフ第2ステージ第2戦で優勝を決めた時はTVhが中継していたため、大量の苦情が殺到している。
[編集] その他
[編集] テレビ東京
- 日本ハムは1990年代後半からテレビ東京でのテレビ中継を行うようになり、それに関連して1996年度から2003年度の8年間に渡って「超野球ファイターズ」と題した球団情報番組を毎週日曜日に放映してきた。
- 札幌移転後の2004年4月からは内容を全面的に一新し、球団監修のミニアニメーション番組「超ぽじてぃぶ! ファイターズ」をテレビ東京とテレビ北海道で放送した。開始当初の半年は日本ハムの選手(実名で登場する)をデフォルメしたギャグアニメーション形式だったが、同年10月の放送からストーリー性を重視して「闘魂野球伝」シリーズ、更に2005年度上半期は北海道の野球少年やファンとの友情を描いた「燃えるぜ!焼けるぜ!」シリーズ、下半期は「11魔人」シリーズを放送し、2006年3月に終了した。
[編集] テレ玉
[編集] ラジオ
[編集] 北海道内
[編集] 北海道放送(HBCラジオ)
- HBCスーパーベースボール ファイターズナイター サタデー&サンデーファイターズ
- サウンドファイターズ→ファイターズDEナイト!
- 朝刊さくらい内スポーツ+1(岩本賢一の日本ハム極秘情報、岩本勉のまいど!)
- FIGHTERS RADIO!
- 大泉洋のサンサンサンデー(SHINJOに会いたい!→オクラホマの勝手にお立ち台!)
- ガンちゃんの世界一面白いプロ野球の番組
- プロ野球三都物語(開幕前に放送する特別番組。東北放送・RKB毎日放送と毎年持ち回りで制作)
- 携帯サイト「HBC熱闘!ファイターズ」も運営している。
- 「ファイターズ中継ナンバーワン」「120%応援実況」をスローガンに年々中継試合数を増やし、2007年からは公式戦はほぼ全試合を中継、時には敵地にも自社アナウンサーを派遣する熱の入れようである。さらに試合後やオフシーズンにも応援番組も充実させている。
- ファイターズ戦中継を増やし、STVラジオとの差別化を図ったことが聴取者から支持され、聴取率でSTVラジオを破った。
[編集] STVラジオ
- スポーツラッキーセブン-「千ちゃんの幸せラジオドーム」内
- STVアタックナイター ファイターズスタジアム
- スーパーラジオファイターズ
- オハヨー!土曜日内「スポーツトレイン」
- オハヨー!ほっかいどう内「オハヨー!チェック・ザ・チェック」
※2006年度までは札幌ドームのナイターを中心に放送していたが、2007年度からはホーム・ビジターのナイター全試合と日曜日のデーゲームを中継、その他は巨人戦を放送。
[編集] FM NORTH WAVE
- Weekly Fighters Press(終了)
[編集] AIR-G'
- AIR-G' Morning PAX内 ファイターズ情報
[編集] その他
[編集] 文化放送
- 岩本勉のまいどスポーツ
- えのきどいちろう意気揚々→フォークトレイン内日本ハムファイターズエキサイティングネットワーク→ミュージックトレイン内北海道日本ハムファイターズエキサイティングネットワーク(終了)
[編集] 補足
- 東映時代、同一資本系統の日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)がテレビ中継の優先権を確保していた。球団が日本ハムとなった後、関係は緩やかに解消され、1990年代以降は上述の通りテレビ東京等との結びつきが強くなっていった。
- 東京ドーム関連のCATV(東京ケーブル)製作ナイター番組をテレビ埼玉とGAORA(毎日放送系列のCS)が購入して放送。北海道移転後もGAORAで引き続きナイター中継が放送されている。ちなみに日本ハム本社は、GAORAに開局当初から出資している主要株主である。
- 1990年代前期、FM富士(当時JFN加盟)が不定期で放送していたラジオ番組「FIGHTERS ROCKS&BASEBALL」という番組があり、日本ハム情報とロック音楽を放送していた。それを同タイトルでテレビ化した番組が1992年秋ごろから1994年ごろまで、テレビ埼玉制作で同局とテレビ神奈川・千葉テレビ放送・びわ湖放送の4局でネットしていた。
- 蛇足であるが、テレビ東京並びに全国中継がある試合の戦績はそれほど良くない。
- この他、北海道内のコミュニティFM放送局でも以下の番組が放送されている。
[編集] インターネット中継
2006年6月16日、「Yahoo!JAPAN動画」上においてインターネット配信を開始し、シーズン後半の1位通過争いやプレーオフの時は回線がパンク状態になった。SHINJOの引退セレモニーも中継したが、GOGOファイターズがずっと流れていた(著作権の関係と思われる)2007もオープン戦から配信させる予定。CS放送のGAORA映像を使っている。
[編集] 北海道日本ハムファイターズファンの有名人(五十音順)
- あべなぎさ - 元巨人ファン。北海道移転後にファイターズファンに。
- 天海祐希 - 田中幸雄ら数人の選手と親交がある。
- 伊集院光 - 千藤三樹男にサインを貰ってから、30年来のファン。中継のゲスト解説を務める事も。
- 稲川淳二 - 雑誌のインタビューで公言。
- 今沢カゲロウ - 北海道江別市出身。元々パ・リーグファンで、移転前からのファイターズファン。応援する曲やコラムも応援サイトに寄稿。ファイターズに関する記事も各紙に掲載。特にマイケル中村を応援。
- えのきどいちろう - 1974年以来のファンで、HBCラジオのゲスト解説者も勤める。
- 大泉洋 - 北海道江別市出身。元巨人ファン。北海道移転後にファイターズファンに。
- 小沢遼子 - 北海道移転後はファントとなり、テレビ・ラジオ出演などで来札の際には、札幌ドームで観戦。
- 小野寺歩 - 元巨人ファン。2006年6月8日の始球式後のインタビューで「道民なので応援したい」と公言。
- カルーセル麻紀 - 北海道釧路市出身。ファイターズファンで、特にダルビッシュがお気に入り。
- 久保田利伸 - 広瀬哲朗の中学の後輩で、広瀬の入団以来ファイターズファン。日本ハム製品のCMに出演したことも。
- 下元あきら -熱 狂的なファイターズファン。テレビ東京系「超野球ファイターズ」のMCを務めていた。
- 杉浦加奈 - ファイターズのファン。
- 鈴井貴之 - 北海道赤平市出身。阪神ファンとの掛け持ちだが、野球よりサッカーの方に熱心。
- 高橋陽一 - 本当はサッカーより野球の方が好きとのこと。
- 中川家礼二 - 阪神ファンとの掛け持ちで、小学校6年の時に江夏豊を見て以来のファイターズファン。
- 西島隆弘 - ファイターズファンで、2006年のリーグ優勝の際にはサンスポにコメントを出した。
- 原幹恵 - ファイターズファン。やはり2006年のリーグ優勝時にサンスポにコメントが掲載された。
- 蛍原徹 - 元阪神ファン。2004年からファイターズファン。関西出身だが北海道をこよなく愛しており、TV番組の企画で「北海道移住計画」が組まれたことも。
- 美咲沙耶 - 自身のブログでファイターズファンです。と公言している他、ファイターズに関する記事もある。
[編集] 関連項目
- 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
- 北海道日本ハムファイターズ歴代4番打者一覧
- ビッグバン打線
- 1962年の日本シリーズ
- 1981年の日本シリーズ
- 2004年のパシフィック・リーグプレーオフ
- 2006年のパシフィック・リーグプレーオフ
- 2006年の日本シリーズ
- 2006年のアジアシリーズ
[編集] 外部リンク
- 北海道日本ハムファイターズ公式サイト
- 北海道新聞 がんばれファイターズ
- 日本ハム : nikkansports.com
- スポニチ北海道
- サンスポ.COM 日本ハム
- 野球:北海道:スポーツ報知
- 応援系にちはむ式
- 北海道日本ハムファイターズ - トラックバック・ピープル
- ヤフー動画(ネット中継サイト)
- ヤフー動画特集ページ
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