ゴリツィア
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ゴリーツィア (Gorizia) |
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国: | イタリア |
州: | フリウーリ=ヴェネツィア・ジュリア |
県: | ゴリツィア |
測地系: | 北緯: 45°56′0″ 東経: 13°37′0″ |
標高: | 海抜 84 m |
面積: | 41 km² |
人口: | 36,615 2004年12月31日 |
密度: | 863 人/km² |
分離集落: | Castello, Lucinico, Oslavia, Piuma, San Mauro, Sant’Andrea, Straccis, Vallone dell'Acqua, Gradiscutta, Piedimonte, Monte Calvario, Oslavia , San Mauro |
隣接コムーネ: | コッリオ(ブルダ) (SLO)、 ファッラ・ディゾンツォ、 モッサ、 ノヴァ・ゴリツァ (SLO)、 サン・フロリアーノ・デル・コッリオ、 サヴォーニャ・ディゾンツォ |
CAP(郵便番号): | 34170 |
市外局番: | 0481 |
ISTATコード: | 031007 |
IDコード: | E098 |
住人の呼称: | goriziani |
守護聖人: | Santi Ilario e Taziano |
祝祭日: | 3月16日 |
公式サイト | |
ゴリツィア(Gorizia;GO)(スロヴェニア語 Gorica, フリウリ語 Gurize, ドイツ語Görz)はイタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州のイタリアとスロヴェニアの国境の都市である。 ゴリツィアは人口3万5千人の自治体で、ゴリツィア県の県都である。 ゴリツィアの名前はスロヴェニア語の山を意味する「gora」に由来し、「小山」を意味する。 スロベニア国境に近いため,イタリア人だけではなくスロベニア人との交流も多い。料理やお菓子にイタリアだけではない多国籍のものがある。
[編集] 歴史
ゴリツィアの名が最初に現れたのは1001年の神聖ローマ皇帝オットー3世(980年 - 1002年)の文書で、彼はサルカノ城と城下にあった「ゴリティア(Goritia)荘をアクイレイアの総司教とフリウリ伯のエプシュタイン家に与えた。エップシュタイン家はバイエルンのパラティン伯を継承した。
1500年代はハプスブルク家のマクシミリアン1世の都市として過ごした。その後、1508年から1509年のヴェネツィアによる占領やナポレオンのイリリア県への併合があったが、ハプスブルク君主国の一都市として1918年まで続いた。
1916年にゴリツィアはイタリア人に占領され、1917年にオーストリアに再占領された後、1918年にイタリアが再占領し、ヴェネツィア・ジューリア総督区に暫定的に併合、その後1919年に正式に併合された。最初はヴェネト州ウーディネ県、次いで1927年にヴェネツィア・ジューリア州の東部フリウリの県都になった。第二次世界大戦中の短い期間ドイツ領になり、Adriatisches Kunstenland政府に含まれた。アングロ=アメリカ行政を経て、1947年にイタリアに帰属した。ゴリツィアの町の一部と鉄道より東はユーゴスラヴィアに割譲され、スロヴェニアとの国境によって2つに分断されている。そしてスロヴェニア領のほうの地区には、現代的な都市ノヴァ・ゴリツァ(新ゴリツィア)が創られた。
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