ジョー・ブライアント
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ジョゼフ・ワシントン・ブライアント(Joseph Washington Bryant, 1954年10月19日 - )、通称ジョー・ブライアント(Joe Bryant)は、アメリカ合衆国出身の元バスケットボール選手、監督。ペンシルバニア州フィラデルフィア出身。バスケットボールのスター選手であるコービー・ブライアントの父親。NBAのフィラデルフィア・セブンティシクサーズなどでプレイしたのちイタリアに渡り、プロバスケットボールリーグのレガAで7年間にわたり活躍。その後米国に戻り大学のアシスタントコーチなどを経て、現在は女子リーグWNBAのロサンゼルス・スパークスおよびbjリーグの東京アパッチで監督を務める。愛称は「ジェリービーン」。
[編集] 経歴
フィラデルフィアに生まれ、地元のラサール大学に進み、バスケットボールの選手として活躍した。大学を3年で退き、1975年に全体14位でNBAのフィラデルフィア・セブンティシクサーズに指名された。身長207センチのブライアントはフォワードのポジションでプレイ、ジュリアス・アービングなどの控え選手としてチームに貢献した。1979年にはサンディエゴ・クリッパーズにトレードされ、このチームで3年目には半数以上の試合で先発を務めた。翌シーズンにはヒューストン・ロケッツに移籍しNBAでのキャリアを終えた。8年間の平均出場時間は21分、平均得点は8.7、リバウンドは4.0だった。
翌シーズンにブライアントはイタリアのリーグ、レガAのリエティに移り、その後同リーグのレッジョ・カラブリア、ピストイア、レッジョ・エミリアの計4チームで7年間にわたりプレイした。ブライアントは7シーズンのうち4シーズンで平均得点30以上と活躍し、イタリアのファンから熱烈な声援を受けた。ピストイアでプレイした1987-88シーズンには53得点を2度あげたことがある。
イタリアでの7年間ののち、1992年にブライアントは米国に戻り、母校のラサール大学でアシスタントコーチの職に就き、スカウトなどの仕事も兼ねた。1998年に、ブライアントはイタリアの名門バスケットボールチーム、オリンピア・ミラノのオーナーの一人になったが、のちにチームを売却した。1999年には、既にNBAでスター選手として活躍していた息子のコービー・ブライアントが同チームのオーナーの一人になり、ジョー・ブライアントは取締役副社長兼ジェネラルマネージャーに就任した。
2003年、ジョー・ブライアントは北米のバスケットボールリーグABAのラスベガス・ラトラーズ監督に就任。シーズン中に選手が不足したため、この時49歳になっていたブライアントは選手としてもプレイした。翌2004年には同じくABAのボストン・フレンジーの監督となり、このチームでも選手兼監督として活躍した。ABAで関わった2チームには、のちに東京アパッチの選手としてブライアントのもとでプレイするジョン・ハンフリーも所属していた。
2005年にブライアントは女子プロバスケットボールリーグWNBAのロサンゼルス・スパークスとアシスタントコーチとして契約した。5月に始まったシーズン終盤の8月にブライアントは監督に昇格、シーズン残りの7試合を率いて4勝3敗、プレイオフの1回戦ではのちに優勝したサクラメント・モナークスに0勝2敗で敗退した。
同年の秋には、WNBAとシーズンの期間が重ならないbjリーグの東京アパッチ監督に就任。bjリーグ初年度にブライアントが率いた東京アパッチは20勝20敗でリーグ3位の成績だった。翌2006年度のWNBAでは、ブライアントはスパークスを地区1位、リーグ2位の25勝9敗の成績に導いた。プレイオフでは地区決勝でサクラメント・モナークスと対戦、この年も0勝2敗で敗れた。
ジョー・ブライアントは妻パメラとの間に二女一男をもうけており、息子のコービーはNBAのロサンゼルス・レイカーズで活躍している。