セクレタリアト
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ベルモントパーク競馬場にある銅像 |
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性別 | 牡 |
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毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1970年3月30日 |
死没 | 1989年10月4日 |
父 | ボールドルーラー |
母 | サムシングロイヤル |
生産 | メドウ・ステーブル |
生国 | アメリカ合衆国 |
馬主 | メドウ・ステーブル |
調教師 | ルシアン・ローリン |
競走成績 | 21戦16勝 |
獲得賞金 | 1,316,808ドル |
セクレタリアト(Secretariat、1970年 - 1989年)は、アメリカ合衆国の競走馬・種牡馬。1973年のアメリカ三冠を初めとした数多くの大記録を打ちたてたアメリカ合衆国を代表する競走馬である。三冠最終戦のベルモントステークスは伝説のレースとして有名。馬でありながら20世紀のトップアスリートの上位にもランクされた(10傑・タイム誌による。35位・ESPNによる)。異名はマンノウォーと同じ『ビッグレッド』。主戦騎手はロン・ターコット。
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[編集] 出自
セクレタリアトは、アメリカ競馬発祥の地バージニア州で最大級の規模を誇るメドウ・ステーブルで生まれた。名前のセクレタリアトは「事務局、又は書記職」という意味であり、牧場の事務を一手に引き受けたエリザベス・ハムに感謝しつけられたといわれる。
セクレタリアトの母サムシングロイヤルはセクレタリアトの他に名種牡馬サーゲイロード(Sir Gaylord)、日本へ輸入されホウヨウボーイ等を出したファーストファミリー(First Family)、他にもシリアンシー(Syrian Sea)、日本輸入のロイヤルタタン(Royal Tatan)を輩出、出産した18頭中11頭が勝ち上がるという優秀な繁殖牝馬であった。父ボールドルーラーはアメリカのリーディングサイアーを8回もとった大種牡馬だが、セクレタリアトが現われるまでアメリカの三冠レースには不思議と縁がなかった。
ボールドルーラーのオーナーであるグラディス・フィプスは種牡馬の種付け料として変わった方法を用いた。その方法というのが、種付け料が無料の代わりに生まれた産駒を生産者とフィプスの間で交互に所有し、その順番はコイントスにて決定するという面白い契約だった。セクレタリアトもメドウ・ステーブルの代表者ヘレン・チェナリーとフィプスの間でこの契約が交わされ、1969年にサラトガ競馬場で翌年生まれる仔馬をどちらが所有するか勝負した。このコイントスはチェナリーが勝利し、メドウ・ステーブルが所有することになった。
[編集] 現役時代
[編集] 2歳時
ルシアン・ローリン調教師のもと鍛えられたセクレタリアトは、7月のアケダクト競馬場で行われたメイドン(未勝利戦)でデビューした。4.1倍の一番人気に押されたもののスタートで出遅れさらに道中でも2度の不利を受けハーブルの4着に敗れてしまい、デビュー戦を飾ることは出来なかった。1週間後同じくアケダクト競馬場で行われたメイドンでは6馬身差の圧勝で初勝利した。セクレタリアトはこの後サンフォードステークス、ホープフルステークス、フューチュリティステークスを含む5連勝を上げた。特にホープフルステークスは当時は2歳最重要レースで、ここも5馬身差で勝利し、マンノウォーの再来、二代目ビッグレッド(BigRed)と呼ばれるようになった。7戦目のシャンペンステークスでは出遅れたうえストップザミュージックと接触、結局進路妨害で2着降格したが、ローレルフューチュリティ、ガーデンステートステークスを連勝し、最優秀2歳牡馬を取るとともに2歳にしてアメリカ年度代表馬に輝いた。
出走日 | 競走名 | 着順 | 距離 | タイム | 着差 | 騎手 | 1着(2着)馬 |
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1972年7月4日 | メイドン | 4着 | D1100m | 1.05.0 | 1 1/4身 | P.フェリシアノ | Herbull |
7月15日 | メイドン | 1着 | D1200m | 1.10.6 | 6身 | P.フェリシアノ | (Master Achiever) |
7月31日 | アローワンス | 1着 | D1200m | 1.10.8 | 1 1/2身 | R.ターコット | (Russ Miron) |
8月16日 | サンフォードS | 1着 | D1200m | 1.10.0 | 3身 | R.ターコット | (Linda's Chief) |
8月26日 | ホープフルS | 1着 | D1300m | 1.16.2 | 5身 | R.ターコット | (Flight to Glory) |
9月16日 | フューチュリティS | 1着 | D1300m | 1.16.4 | 1 3/4身 | R.ターコット | (Stop the Music) |
10月14日 | シャンペンS | 2着 | D1600m | 1位降着 | R.ターコット | Stop the Music | |
10月28日 | ローレルフューチュリティ | 1着 | D1700m | 1.42.8 | 8身 | R.ターコット | (Stop the Music) |
11月18日 | ガーデンステートS | 1着 | D1700m | 1.44.4 | 3 1/2身 | R.ターコット | (Angle Light) |
- 1972年はグレード制導入前。Dはダート、Tは芝、Rはレコードの略
[編集] 3歳時
1月3日生産・所有者であるC.シナリーが死亡したため、同氏の遺産管財人はセクレタリアトの売却を決定。19万ドル×32株、総額608万ドルのシンジケートが組まれた。これは英三冠馬ニジンスキーが付けた544万ドルを上回るもので、一部からは3歳になったばかりの馬にこの額は異常との声も出た。
この間暖かいフロリダで過ごし、3月ニューヨークに戻った。ケンタッキーダービーの前哨戦であるウッドメモリアルステークスで4着に敗退するも、それ以外は全勝で、ゴーサムステークスはレコードだった。ケンタッキーダービーは、最後方から徐々に進出し直線抜け出すと、ノーザンダンサーの持つレコードを0.6秒更新する1分59秒4のレコードでまず一冠を獲得した、このレコードは30年以上たつ現在でもケンタッキーダービーのレコードである。
2冠目のプリークネスステークスも最後方から早め先頭でシャムに2馬身半差をつけ楽勝。タイムは最初1分55秒と発表され、後に1分54秒4と訂正された。当時ピムリコ競馬場の計測器が故障しており、どちらも手動計測値である。さらに、デイリーレーシングフォームは別の手動計測員による1分53秒4のタイムを発表した。レース後従来のレコードタイムを上回っている事が確かめられ、そのため幾つかの成績表では、公式タイムとは別にレコードタイムとなる1分53秒4が載せられている。
史上9頭目のアメリカ3冠を達成したベルモントステークスは、セクレタリアトのベストレースで、ベルモントパーク競馬場には6万7千人の観客が詰め掛けていた。レースはセクレタリアトの独壇場、珍しく逃げの戦法を取ったセクレタリアトに、前二冠で連続2着となっていた対抗のシャムが唯一ついて行こうとしたが早めに力尽き後退、その他の馬たちもまったく付いていけず、直線入り口ですでに10-20馬身差、ゴールしたときは2着のトワイスアプリンスに31馬身もの差をつけてしまった。タイムは2分24秒0、ベルモントステークスやダート12ハロンのレコードどころか、ダート2300mのワールドレコードすらも上回るという驚異的なタイムであった。現在でもダート12ハロンのワールドレコードであり、もはや更新不可能といわれることも多い。また、2400m-2分24秒という時計も然ることながら、自らが逃げて作り出した通過ラップタイム(400m:23秒6-800m:46秒2-1200m:1分9秒2-1600m:1分34秒2-2000m:1分59秒)も驚異的である。400mの通過タイムを除き、800m以降の到達タイムは、今だにベルモントSのレコードタイムとなっている。1994年ナリタブライアンが勝った皐月賞のレコードタイム(当時)をダートで逃げて叩きだし、かつそのまま2400mを走破してしまうという事実はにわかには考え難い。さらにベルモントステークスの2日後、雑誌タイム誌の表紙を飾り特集が組まれた。これにより競馬に興味のない一般層にも名前が知られる事となった。
セクレタリアトはその後も走り続け、熱発等で2度の敗戦を経験するも、ベルモントステークスの次走アーリントン招待ステークスも9馬身差、芝のレースにも挑戦し、初戦は初代ビッグレッド、マンノウォーを記念したマンノウォーステークスに出走し5馬身差レコード、芝でも変わらない強さを見せ付けた。引退レースでカナダに遠征したカナディアンインターナショナルチャンピオンシップステークスも圧勝し、2歳時に続いて3歳時も年度代表馬に輝いた。芝ダートを問わない圧倒的な走り、伝説のレースとなったベルモントステークスを含む5度のレコード、史上最強馬と評する者もいる。雑誌タイム誌やニュースウィークなどの表紙を飾り、20世紀の偉大なスポーツ選手の1頭に選ばれたようにアメリカの国民的英雄だった。
出走日 | 競走名 | 着順 | 距離 | タイム | 着差 | 騎手 | 1着(2着)馬 |
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1973年3月17日 | ベイショアS(G3) | 1着 | D1400m | 1.23.2 | 4 1/2身 | R.ターコット | (Champagne Charlie) |
4月7日 | ゴーサムS(G2) | 1着 | D1600m | R1.33.4 | 3身 | R.ターコット | (Champagne Charlie) |
4月21日 | ウッドメモリアルS(G1) | 3着 | D1800m | 1.49.80 | 4身 | R.ターコット | Angle Light |
5月5日 | ケンタッキーダービー(G1) | 1着 | D2000m | R1.59.4 | 2 1/2身 | R.ターコット | (Sham) |
5月19日 | プリークネスS(G1) | 1着 | D1900m | 1.54.4 | 2 1/2身 | R.ターコット | (Sham) |
6月9日 | ベルモントS(G1) | 1着 | D2400m | R2.24.0 | 31身 | R.ターコット | (Twice a Prince) |
6月30日 | アーリントン招待S | 1着 | D1800m | 1.47.0 | 9身 | R.ターコット | (My Gallant) |
8月4日 | ホイットニーH(G2) | 2着 | D1800m | 1.49.2 | 1身 | R.ターコット | Onion |
9月15日 | マールボロC招待H | 1着 | D1800m | R1.45.4 | 3 1/2身 | R.ターコット | (Riva Ridge) |
9月29日 | ウッドウォードS(G1) | 2着 | D2400m | 2.25.80 | 4 1/2身 | R.ターコット | Prove Out |
10月8日 | マンノウォーS(G1) | 1着 | T2400m | R2.24.8 | 5身 | R.ターコット | (Tentam) |
10月28日 | カナディアン国際CSS(G2) | 1着 | T2600m | 2.41.8 | 6 1/2身 | E.メイプル | (Big Spruce) |
[編集] 引退後
2歳の時点で当時のレコード価格となる608万ドル(約18億700万円)のシンジケートが組まれていた。父ボールドルーラーが繋用されていたクレイボーンファームで種牡馬入りし、馬房は1971年に死亡した父がかつて使っていたものが用意された。種牡馬成績は一般的に失敗だと言われているがこれは競走成績や同世代のミスタープロスペクターと比較されてしまうこと、米種牡馬リーディングの上位に入ったのが1988年の8位の1回のみであったからである。産駒はBCディスタフに勝ち北米年度代表馬になったレイディーズシークレット(Lady's Secret)、プリークネスステークス、ベルモントステークスを勝った米二冠馬リズンスター(Risen Star)などの活躍馬を含む653頭の産駒から57頭のステークスウィナーを輩出している。幾つか残した父系子孫も2006年現在その殆どが途絶している。しかし母の父としてはストームキャット、エーピーインディ、サマースコール、ゴーンウエスト、セクレト、チーフズクラウン等を送り出し再評価されつつある。種牡馬セクレタリアトは父ボールドルーラーのスピードよりも、母の父プリンスキロのスタミナを強く出す傾向にあったのだろう。
1989年秋頃、蹄葉炎を発症し、治療を受けるも4本の足全てが蹄葉炎に蝕まれるなど手の施しようが無いほど悪化し10月4日正午過ぎ安楽死された。19歳であった。遺体はクレイボーンファームに埋葬されている。
[編集] 代表産駒
- ジェネラルアセンブリー(General Assembly) - 7勝、トラヴァーズステークス、ホープフルステークス
- レイディーズシークレット(Lady's Secret) - 45戦25勝、BCディスタフ、北米年度代表馬
- リズンスター(Risen Star) - 11戦8勝、プリークネスステークス、ベルモントステークス 産駒にStar Standard他
- キングストンルール(Kingston Rule) - メルボルンカップ
- ティナーズウエイ(パシフィッククラシック2回)
- ヒシマサル - 13戦5勝、京都4歳特別、きさらぎ賞、毎日杯
リズンスターはベルモントステークスを14馬身3/4差で勝ち、父のファンを沸かせた。
[編集] その他
セクレタリアトはかなりの大食漢で馬体重530kg前後、かなりの大型馬であったにもかかわらず欠点のない馬体と評された。あだ名は「ビッグレッド」のほかに食べて寝てばかりいたことから「のんびりや」。 死亡時にケンタッキー大学で検死が行われ、心臓の重さが10キログラム弱と、通常の馬の数倍あることがわかった。なんら病的なものは見られず、セクレタリアトの強さの原動力だったのだろう。
主戦騎手のロン・ターコット騎手はカナダ出身。のちにセクレタリアトでの騎乗が認められ、カナダ勲章を受賞している。アメリカのトップジョッキーだったが、1978年の悲劇の落馬事故で引退した。
- アーリントンパーク競馬場では、夏にセクレタリアトを記念してセクレタリアトステークス(G1)が開催される(2006年の勝ち馬はショウイングアップ)。
- 冒頭にある銅像はベルモントパーク競馬場にある実物の1/3のもの、他にケンタッキーホースパーク等に実物大の銅像がある。
- 1972年、エクリプス賞年度代表馬、最優秀2歳牡馬
- 1973年、エクリプス賞年度代表馬、最優秀3歳牡馬、最優秀芝馬
- 1992年、北米リーディングブルードメアサイアー
- 20世紀のアメリカのサラブレッドベスト100(Blood-Horse magazine)、2位(1位はマンノウォー)(→英語版ウィキペディア)
- 20世紀世界の平地競走馬トップ200(Portway Press Limited)、2位(1位はフランスのシーバード)
- 20世紀のアスリートベスト10に選出(the Top Ten of Time Magazine)
- 20世紀のトップアスリートベスト100(ESPN)、35位(1位はマイケル・ジョーダン。競馬関係者では最上位)(→ESPN, Sports Century)
20世紀末に各国で盛んに行われたベストアスリート○○選等では、日英豪で競走馬・競技馬が幾頭かランクインしたが、特にセクレタリアトの場合上位に入ったためその是非について議論を呼んだ。
[編集] 血統
母サムシングロイヤルは多数の優秀馬を輩出した名繁殖牝馬であり、セクレタリアトの兄弟には以下の馬がいる。
- シリアンシー(全姉、セリマステークス)
- ザブライド(全姉)
- サーゲイロード(サプリングステークス、グレートアメリカンステークス)
- サムシングファビュラス
- ファーストファミリー(ガルフストリームパークハンデ、レナードリチャーズステークス、パームビーチハンデ)
- ロイヤルタタン
その他近親には姪にアラダ、甥にアトイーズ、マニラザルーラー、従兄弟にヒアアンドゼア、ディスパース、クイーンズダブル、姉のひ孫にニシノフラワー、近親は他にアレッジドやダッシュフォーキャッシュ(クォーターホースの歴史的名馬)等もいる。
[編集] 血統表
セクレタリアトの血統 (ボールドルーラー系(ナスルーラ系)/アウトクロス) | |||
父
Bold Ruler 1954 黒鹿毛 |
Nasrullah 1940 鹿毛 |
Nearco | Pharos |
Nogara | |||
Mumtaz Begum | Blenheim | ||
Mumtaz Mahal | |||
Miss Disco 1944 鹿毛 |
Discovery | Display | |
Ariadone | |||
Outdone | Pompey | ||
Sweep Out | |||
母
Somethingroyal 1952 鹿毛 |
Princequillo 1940 鹿毛 |
Prince Rose | Rose Prince |
Indolence | |||
Cosquilla | Papyrus | ||
Quick Thought | |||
Imperatrice 1938 黒鹿毛 |
Caruso | Polymelian | |
Sweet Music | |||
Cinquepace | Brown Bud | ||
Assignation F-No.2-S |
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 山野浩一『伝説の名馬 IV』中央競馬ピーアール・センター、1997年 ISBN 4924426555
- 原田俊治『新・世界の名馬』サラブレッド血統センター、1993年 ISBN 4879000329
- Woolfe, Raymond G.『Secretariat』The Derrydale Press、2001年 ISBN 1586670670
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