マイケル・ジョーダン
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マイケル・ジェフリー・ジョーダン(Michael Jeffrey Jordan, 1963年2月17日 - )は、アメリカ合衆国の元バスケットボール選手。バスケットボール史上最高のプレーヤーと言われる。類まれな運動能力に恵まれ、ジャンプの滞空時間の長さから、「エアー(Air)」という愛称を持ち、空中での動きに非凡な才能を見せた。1992年のバルセロナオリンピック出場、所属するNBAのシカゴ・ブルズを通算6回の優勝に導いたこと、そしてその並外れた技術により世界的な人気を集め、NBAの知名度向上や商業的な成功に大いに貢献した。1984年と1992年のオリンピック金メダリスト。1996年には、NBA 50周年を記念した「50人の偉大な選手」の一人に選ばれた。15年間にわたった選手生活の平均得点は30.12点でNBA歴代1位、通算得点は32,292点で歴代4位。5度の年間MVP、6度のNBAファイナルMVP受賞。身長198cm。プレイオフ記録となる63得点を上げたジョーダンに対し、ラリー・バードが「彼はマイケル・ジョーダンの姿をした神だ」と言ったことから、ジョーダンは神(GOD)に譬えられるようになる。ただこれはあくまでもバスケットボールの神様ということである。現役時代の背番号23はシカゴ・ブルズ、マイアミ・ヒートの永久欠番。
男子 バスケットボール | ||
金 | 1984 | バスケットボール |
金 | 1992 | バスケットボール |
目次 |
[編集] 生い立ち
マイケル・ジョーダンは、ジェームズ・ジョーダンとデローレス夫妻の三男としてニューヨーク州ブルックリンで生まれた。とても食欲旺盛で、生後3週間でシリアル食品を食べていたという。少年時代の多くをノースカロライナ州ウィルミントンで過ごした。少年時代には兄にバスケットボールの手ほどきを受けたほか、野球やアメリカンフットボールをプレイした経験もあった。特に野球は得意なスポーツの一つで、高校まで続けていた。
地元のE・A・レイニー高校に入学。高校時代に学校のバスケットボールチームに入れなかったエピソードはよく知られている。この挫折を乗り越え、1年後にはチーム入りを果たす。その後は注目を集める選手に成長した。
高校卒業後はノースカロライナ大学(UNC)に進学、地理学を専攻した。同大学ターヒールズの新入生として彼は刺激的なプレーヤーだった。1982年のNCAAチャンピオンシップで彼はウィニング・ショットを決め、同校2度目のNCAAチャンピオンに導き、シーズンを終えた。2年次に彼はチームのスターとなり、その年に彼はジュニアの全国選抜に指名された。3年次の時にはネイスミス賞とウッデン賞を受賞。
この年のシーズン終了後、当時ヘッドコーチだったディーン・スミスの薦めもありプロ入りを決意。1984年のNBAドラフトでシカゴ・ブルズに全体3位で指名された。(当時の全体1位はヒューストン・ロケッツのアキーム・オラジュワンであった。)
大学を休学した後の夏にアメリカ代表としてロサンゼルスオリンピックに参加、中心選手の一人として金メダル獲得に貢献した。
[編集] シカゴ・ブルズ
2シーズン弱の引退期間を除き、入団(1984年)から2度目の引退(1998年)まで13シーズンをシカゴ・ブルズで過ごした。主なポジションはシューティングガードだったが、ポイントガードやスモールフォワードもプレイできるオールラウンドな面もあった。
ブルズを退いた1998年の時点でシーズン得点王は10回、通算得点は歴代3位、1試合平均は歴代1位の得点31.5点であり、彼の時代では例外的と言えるほどの高い得点能力を持っていた。インサイドではダンクや独創的な動きから繰り出すレイアップ、アウトサイドではフェイダウェイジャンプシュートなど幅広いオフェンススキルを駆使した。
単に得点能力だけでなく、初期のジョーダンを有名にしたのはダンクシュートや空中でディフェンダーをかわす技術(ダブルクラッチ)だった。他の選手がまず真似できないような空中でのプレイを数多く見せ、ジョーダン個人が注目を集める大きな要因となった。
また、勝負強さを兼ね備えた選手でもあった。土壇場での活躍は数々の名場面を生み出し、ファンの記憶に残ることとなった。
彼は6度のNBA優勝(1991年-1993年、1996年-1998年)を勝ち取り、5度のレギュラーシーズンMVPに輝いた(1988年、1991年、1992年、1996年、1998年)。1985年はルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を獲得。6度の優勝の機会にはそれぞれファイナルMVPを受賞した。彼はまたレギュラーシーズン、ファイナル、オールスターのMVP3冠を1996年と1998年の2度達成している。他にMVP三冠を達成したプレイヤーは1970年のウィリス・リードと2000年のシャキール・オニールだけである。
優秀なディフェンダーでもあり、1988年以降は引退していたシーズンを除いて1998年まで9回オールNBAディフェンシブファーストチームに選出されている。1988年にはシーズンMVPと最優秀守備選手を同時受賞した。
[編集] キャリア初期
入団当初のジョーダンは、高い運動能力と得点能力を持つ期待の新人選手だった。1年目の平均得点は28.2、怪我によりシーズンの多くを欠場した2年目は22.7点、そして3年目にはスコアリングマシンとなったジョーダンは毎試合高得点をたたき出し、平均得点は37.1点だった。このシーズン、ジョーダンは初めて得点王になったばかりか、平均得点、シーズン総得点3,000点オーバーはウィルト・チェンバレン以来の高い水準だった。
得点能力だけでなく運動能力、特に空中でのボディコントロールには抜群のセンスを見せ、若手ながらリーグ屈指の人気選手になっていた。シカゴ・ブルズが遠征で訪れる試合は多くの観客を集め、ホームの試合のチケットは入手が困難になった。
しかしチームはまだ強くなく、ブルズを「ジョーダンとその他4人」と揶揄する記者やファンもいた。ジョーダンはボールを持つ機会とシュートの本数が多く、独りよがりなプレイを批判する声もあった。
入団当初のジョーダンは高価なアクセサリーを身に着けてプレイすることがあり、先輩選手たちには生意気な新人と見られることがあった。1985年には新人ながらオールスター戦出場を果たすが、この試合でジョーダンは味方選手からパスを回してもらえない(フリーズ・アウト)という仕打ちを受ける。のちにジョーダンはこの経験に深く傷ついたと語っている。この事件の首謀者と言われたアイザイア・トーマス(デトロイト・ピストンズ)とはしばらく良くない関係が続いた。
[編集] ピストンズの壁
1980年代が終盤に近づくと、この時代イースタン・カンファレンスを支配していたボストン・セルティックスが徐々に衰退し始めた。それに代わって台頭してきたのはデトロイト・ピストンズだった。
一方のシカゴ・ブルズは、若手のダグ・コリンズ監督のもと力を付け始め、プレイオフでも勝ち残れるチームに成長していた。
1987年にセルティックスに敗れた翌シーズンより、ブルズは毎年プレイオフでピストンズと対戦するようになる。この時期、荒いディフェンスでバッドボーイズと呼ばれていたピストンズは、対戦する度にブルズとジョーダンを痛めつけ、敗退させた。
ピストンズはジョーダン・ルールと呼ばれる方法でジョーダンのオフェンスを封じようとした。これはインサイドに切り込んだジョーダンを数人がかりで抑え込むもので、精神的・肉体的にジョーダンを苦しめた。
コリンズの指導の甲斐あり、ブルズは50勝できるチームにまでなっていた。しかし1988年に続き1989年にもプレイオフでピストンズに敗退すると、コリンズはブルズに解雇された。翌シーズン、ブルズはCBA上がりのアシスタントコーチフィル・ジャクソンを監督に昇格させた。
ジャクソンは新しいオフェンスシステム導入(トライアングル・オフェンス)に取り組むなどチーム強化に努めた。ブルズに加入していた若手のスコッティ・ピッペンとホーレス・グラントも次第に成長していき、ついにはレギュラーシーズンの勝ち星を55勝にまで増やした。チームメートの信望が厚いビル・カートライトはキャプテンとしてチームをまとめ、ロールプレイヤージョン・パクソンはバックコートでジョーダンと組む選手として定着しており、ブルズはますます手堅いチームになっていた。
しかしプレイオフでは、ピッペンの変調などもあり、3勝4敗でまたしてもピストンズに敗退した。このシーズンと前シーズン、ピストンズは連覇を果たしており、チーム史上の絶頂期にあった。
[編集] 最初のスリーピート
ピストンズに敗れたものの、ブルズの選手個々人の成長、そしてチームとしての成長は明らかで、翌1990-91シーズンにはチーム史上最多の61勝を上げていた。ジョーダン自身もそれまでのスタイルを変え、ジャクソン監督の方針通りボールを他のチームメートと分かち合う場面が以前より見られるようになった。このシーズン、チームの勝ち数は過去最高だったにもかかわらず、ジョーダンの平均得点は過去数年で最低の31.5点だった。(ただし、それでも得点王となっていた。)
プレイオフでは、カンファレンス・ファイナルでピストンズと4年連続の対戦。この年は4勝0敗でこれまでの雪辱を果たし、NBAファイナルではマジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズが相手となった。新旧スーパースター対決となったこのシリーズを、シカゴ・ブルズは4勝1敗で勝利し、初優勝を決めた。ジョーダンはファイナルMVPを受賞した。
翌シーズン、ブルズはリーグ史上屈指の勝ち数67を上げた。再びNBAファイナルに進出したブルズは、クライド・ドレクスラーを擁するポートランド・トレイルブレイザーズと対戦。ジョーダンに似たタイプで得点力のあるシューティングガードのドレクスラーを相手に、ジョーダンは目覚ましいパフォーマンスを見せ、4勝2敗で2年連続の優勝を実現した。
次の1992-93シーズンは、ブルズの勝ち数は57勝と前シーズンより10減らしていたが、プレイオフでは再びNBAファイナルに進出。ウェスタン・カンファレンスを制したのはフェニックス・サンズで、チームのエースであり、ジョーダンの親友でもあるチャールズ・バークレーはこのシーズンMVPに選ばれていた。レギュラーシーズンの勝ち数がリーグ最多だったサンズはホームコートアドバンテージを持っており、ブルズはホームでの試合数が一つ少ない不利を抱えていた。シリーズは敵地での6試合目を制したブルズが勝利し、3度目の優勝を決めた。このシリーズで平均41得点(NBA歴代最高)をあげたジョーダンはMVPに選ばれた。
1980年代末より「3連覇」を意味する「スリーピート」という言葉が使われていたが、NBAのチームがこれを実現するのは1960年代のボストン・セルティックス以来のことだった。
[編集] 引退と復帰
3連覇後のシーズンオフ、事件により父親を失ったのち間もなく、ジョーダンは1993年9月に突如引退した。全盛期にあっての引退はNBAとメディアに衝撃を与えた。引退表明の会見でジョーダンは「もはや証明するものはない」と述べたが、それまで続いていたジョーダンへのバッシング、3連覇によりモチベーションが低下したこと、父を失った衝撃が引退の動機になったとマスコミは推測した。
その後2年間MLBに挑戦した後、MLBのストライキを契機に1995年3月に再びブルズに復帰。メディアは大々的にジョーダンの復帰を報じた。シーズン末の17試合に参加し、チームはプレイオフに臨んだ。
ジョーダンは2年にわたり野球選手として練習を積んだ後であり、バスケットボールにふさわしい体型を取り戻していなかった。加えて、この頃ジョーダンは32歳になっていた。引退前のように空中を跳躍するよりはむしろ、ジャンプシュートを中心としたオフェンスが目立つようになっていた。
プレイオフでは、1回戦でシャーロット・ホーネッツを3勝1敗で下し、続くカンファレンス・セミファイナルではオーランド・マジックと対戦した。オーランドはシャキール・オニールとアンファニー・ハーダウェイという二人の才能ある若手を擁した新進気鋭のチームだった。このシリーズ、ジョーダンは重要な場面で些細なミスを繰り返し、2勝4敗でブルズが敗退する原因の一つとなった。
[編集] 後期スリーピート
1994-95シーズン終了後のオフ、ジョーダンはバスケットボールの体型を取り戻すべく、そして再び優勝を狙うために懸命にトレーニングを行った。
ビル・カートライトやホーレス・グラント、ジョン・パクソンは既にチームを去っており、補強としてブルズはパワーフォワードにデニス・ロッドマン、ヨーロッパの最優秀選手としてチームに加入したガード・フォワードのトニー・クーコッチも3年目を迎えて成長を見せていた。ジョーダン復帰以前に加わっていたロン・ハーパーは優秀なディフェンダーに変貌した。ジョーダン不在の間チームを牽引したスコッティ・ピッペンはリーグでもトップクラスの選手に成長していた。ロッドマンはかつてバッドボーイズと呼ばれたデトロイト・ピストンズの中心メンバーの一人であり、また様々な言動が物議を醸したことがあるため、ブルズに馴染めるかどうかが人々の関心を集めた。
1995-96シーズンが始まると、ブルズは快進撃を続け、NBA史上最高の勝利数を狙えるほどの勢いだった。ジョーダン、ピッペン、ロッドマンはリーグ最強の3人組として注目を集めた。
ジョーダン自身は、1993年以前の強烈なスラムダンカーというよりは、技巧的なジャンプシューターとしてプレイしていたが、平均得点30.4で8度目の得点王に輝くことになる。
シカゴ・ブルズは72勝10敗でレギュラーシーズンを終えた。この勝ち数はNBA史上最多であり、70勝を超えたチームも歴史上初だった。ブルズは数字上史上最強のチームとしてプレイオフに臨み、NBAファイナルでシアトル・スーパーソニックスと対戦。敵地のシアトルで2試合を落としたものの、6試合目にシカゴに戻り4度目の優勝を決めた。ジョーダンは再びファイナルMVPを受賞した。
続く1996-97シーズン、ブルズは前シーズンより3勝少ない69勝でレギュラーシーズンを終える。
プレイオフでは、このシーズンもブルズはファイナルに進出。ウェスタン・カンファレンスからは、ユタ・ジャズが勝ち上がってきた。史上屈指の名コンビと言われるジョン・ストックトンとレギュラーシーズンのMVPカール・マローンを相手に、シリーズは4勝2敗でブルズがものにする。緒戦のブザービーターや敵地ソルトレークシティーでの病気を押してのパフォーマンスが注目されたジョーダンが再びMVPに選ばれた。ブルズとジョーダンの優勝回数は5回となっていた。
続く1997-98シーズンは、フィル・ジャクソン監督がシーズン後の退任を早い時期から仄めかしており、ピッペンはチーム経営陣との関係を悪化させていた。強豪ブルズは今年で最後かという観測を、マスコミはジャクソンの表現を借りラストダンスという言葉で表した。復帰以降、マスコミやファンはしばしばジョーダンの年齢を話題にするようになっており、「いつまでプレイするか」が関心の的になっていた。ジョーダンは「ジャクソン監督とピッペンが辞めれば自分も辞める」と発言していたが、自身の進退については明言を避けていた。このシーズンはブルズの2度目の「スリーピート」がかかっており、様々な意味で注目を集めることになった。
ブルズはNBAファイナルに進出し、対戦相手はこの年もユタ・ジャズだった。両チームともレギュラーシーズンは62勝20敗だったが、シーズン中の対戦成績に勝っていたユタ・ジャズがホームコートアドバンテージを得ていた。
5戦目までで3勝2敗でシリーズの舞台をユタに戻し、臨んだ第6戦、ジョーダンは残り5.2秒で決勝シュートを決め、ブルズに6度目の優勝と2回目のスリーピートをもたらした。ジョーダンはシーズン終了後の1999年1月13日に2度目の引退を発表した。
[編集] 有名なプレイ
- 1986年のプレイオフ、当時史上最強と言われたボストン・セルティックスと対戦したイースタン・カンファレンス第1回戦2試合目で、プレイオフ記録となる63得点を上げた。試合後、ラリー・バードは「あれはマイケル・ジョーダンの姿をした神だ」とコメントした。試合自体はブルズの負けで、シリーズも3連敗で敗退した。
- 1989年のプレイオフ、クリーブランド・キャバリアーズと戦ったイースタン・カンファレンス1回戦、2勝2敗で迎えた第5戦終了直前に、99対100の場面でジョーダンは体を横に流しながらの難しいシュートを放ち、終了のブザーと同時に逆転を成功させた。このシュートでブルズのカンファレンス・セミファイナル進出が決まった。このシュートを英語圏では The Shot と呼ぶことがある。
- 1991年NBAファイナル第2戦、ダンクに向かって跳躍するジョーダンは、サム・パーキンスのブロックをかわすためボールを左手に持ち替え、落下しながらスクープショットを決めた。このシュートを英語圏では The Move と呼ぶことがある。
- 1992年のNBAファイナル、ブレイザーズと戦った第1戦、ジョーダンが放つ3ポイントシュートがことごとく決まり、前半で6本の3ポイント成功は当時のNBAファイナル記録だった。この試合は前評判では当時ジョーダンと評価を二分していたクライド・ドレクスラーとの戦いという事で盛り上がった。が、結果はジョーダンの一人舞台であった。
- 1993年ファイナル第6戦、試合終了前に、一人でディフェンスを突破し、非常に高い位置でのレイアップを決め、グライダーとよばれる。そしてNBA3連覇を成し遂げた。(ジョーダンはMVP)
- 1997年のNBAファイナル第5戦、ジョーダンはインフルエンザで最悪のコンディションだったが38得点を上げ、ブルズは優勝に王手をかけた。
- 1998年のNBAファイナル第6戦、試合終了間際にジョーダンはカール・マローンからスティール。そのままボールを運びジャンプショットを放ち、残り5.2秒で逆転に成功。ユタ・ジャズはその後追いつくことなく、ブルズは6度目の優勝を決めた。
[編集] オリンピック
ジョーダンはオリンピックアメリカ代表チームで2度プレイし金メダルを得ている。1度目は大学選手として1984年のロサンゼルスオリンピックで、2度目は1992年のバルセロナオリンピックでマジック・ジョンソンやラリー・バードと共に「ドリームチーム」としてである。
バルセロナ五輪でのドリームチームの活躍はセンセーショナルなもので、各試合で大差をつけての勝利を続けた。またアメリカ代表の活躍によりNBAとジョーダンの人気が国際的にも上昇するという効果ももたらした。
金メダル授与の式で、ジョーダンはユニフォームのチャンピオン(スポーツ衣料メーカー)のロゴを星条旗で隠すという行動をとった。これはジョーダンがナイキとスポンサー契約を結んでいたからだが、このあまり見られない行為は話題になった。
[編集] バッシング
1991年の優勝で頂点まで上がったジョーダンの名声は、次のシーズンには傷つけられるようになる。
優勝したNBAのチームはホワイトハウスに招かれるのが恒例となっていたが、ジョーダンはブッシュ大統領に以前会ったことがあるのを理由に招待を断っていた。マスコミはジョーダンの行動が礼に失していると批難した。
同様に、バルセロナオリンピック参加を初めの頃は渋っていたと報じられたことも、愛国心がなく独善的であると批難の理由になった。
またこの頃からジョーダンのギャンブル癖が世に知られるようになり、人々の予想を超える額の金が賭けられていることは失望と顰蹙を買った。特に、ジョーダンのギャンブル相手には殺害された麻薬売人がおり、その遺品から20万ドルの記載とジョーダンの署名入りの小切手が発見されると厳しい批判が起こった。(ジョーダン自身は麻薬売人の殺害に無関係であることが証明された。)
1991-1992シーズン期間中にシカゴの新聞記者サム・スミスが出版した Jordan Rules という著書はジョーダンを自己中心的で独裁的な人物として描いており、具体的な情報源をもとに書かれていただけにバッシングに更に拍車をかけた。
一連のバッシングによりジョーダンは窮地に立たされたかのように見え、あからさまにマスコミを避ける時期もあったが、厳しい批判もやがてジョーダンを襲う悲劇と共になりを潜めるようになった。
[編集] 家族の悲劇
1993年8月、ジョーダンの父親ジェームズは、友人の葬儀からの帰路の途中に仮眠を取るためノースカロライナ州のハイウエイの路側帯に停車していたところ、二人の強盗により殺害された。犯人らはマイケルからの贈り物であるレクサスを盗み、ジェームズの遺体を近くに遺棄した。
犯人たちはジェームズの携帯電話から頻繁に発信を行ったため、直ちに逮捕された。ジェームズは行き先を明らかにせずに数日間外泊することがよくあったため、当初マイケルと家族は捜索願いを提出しなかった。捜索が始まると、ジェームズの遺体は川で発見され、身元不明人として条例により焼却されていたことが分かった。メディアは当初ジェームズの殺害をマイケルが公認していた彼のギャンブル癖と結びつけようとした。ジェームズがゴルフでの賭で何万ドルも失ったことをマイケルが認めたことが広く公表された。
マイケル・ジョーダンが最初の引退を表明したのは、事件が明らかになってひと月あまり後のことだった。
[編集] MLBへの挑戦
ジョーダンは、シカゴ・ブルズを引退して間もなく、1993-94年のNBAシーズン開幕2日前にMLB・シカゴ・ホワイトソックスのファームチーム、バーミンガム・バロンズに入団した。多くのファンがマイケルは父親が殺害された悲しみを紛らわせるため子供の頃のもう一つの夢を追求したのだと解釈した。ホワイトソックスのオーナーは、シカゴ・ブルズのオーナーでもあるジェリー・ラインズドーフであるため、実力ではなくコネで入団したのだと反感を持つ野球の選手やファンもいた。
ジョーダンは年齢も身長も自分より一回り下の選手たちに混じりバスで遠征先を周り、懸命に練習を重ねたが、専門家はプロレベルの変化球を打つのは困難だろうと予測した。彼の成績は127試合の出場で打率2割2厘、ホームラン3本、11エラーというものであり、メジャーリーグに昇格することは出来なかった。
1994年にはMLBでストライキが起き、翌年になっても事態は進展しなかった。ホワイトソックス球団は状況を打開するため、選手にオープン戦に出場するよう求め、従わない場合は施設の利用を拒否した。球団社長はジョーダンにはこの処置を適用しないと約束していたが、球団関係者は約束を反故にしようとしたため、ジョーダンとの関係が悪化した。この件はジョーダンがブルズに復帰する一つの契機になった。
[編集] ワシントン・ウィザーズ
[編集] オーナー及び人事部門責任者
1999年、引退後のジョーダンがシャーロット・ホーネッツ(現ニューオーリンズ・ホーネッツ)のオーナー陣に加わるとの報道がなされた。ジョーダンは実際そのために関係者と協議を行っていたが、結局は物別れに終わり、ジョーダンのオーナー入りは実現しなかった。
翌2000年に彼はワシントン・ウィザーズに出資を行い、オーナーの一人となった。同時に同チームのバスケットボール運営部門の社長となった。これは選手の人事に関する責任者になったことを意味した。
この時期のウィザーズは勝ち数20前後と低迷しており、チーム再建がジョーダンに課せられた使命だった。ジョーダンはかつてのブルズの監督ダグ・コリンズをウィザーズ監督に任命。2001年のNBAドラフトでは、ウィザーズは全体1位の指名権を獲得しており、ジョーダンはクワミ・ブラウンを指名した。高卒の新人が全体で1位指名を受けるのはNBA史上初めてのことであり、当時議論を呼んでいた新人の低年齢化を象徴する出来事となった。
[編集] 2度目の現役復帰
NHL選手のマリオ・ルミューの活躍に触発されたジョーダンは、2001年に低迷を続けるウィザーズのために2度目の復帰を果たす。以前はガードのポジションだったが、チーム事情によりスモールフォワードでプレイすることとなった。彼の技術は年相応に衰えてはいたが、2001-02年シーズンはケガに悩まされながらも一試合平均23点の記録を上げた。2002-03年シーズンは1試合平均20点を上げる。ラストシーズンにはリーグ史上唯一の40歳で40得点という記録も樹立した。
復帰当初、ジョーダンはチームをプレイオフに進出させることを目標にすると明言していたが、2001-02シーズンは37勝45敗でイースタン・カンファレンス10位、2002-03シーズンは同じく37勝45敗でカンファレンス9位と目標を果たせずに終わった。
2002年NBAオールスターゲームにおいて、以前は彼の象徴であったスラムダンクを失敗し、視聴者は茫然とした。しかし、その次のシーズンのオールスターゲームでは、試合終了間際に逆転フェイダウェイショットを決めた。直後に再逆転されたが、既にシーズン終了後の引退を表明していたジョーダンに対し会場からはジョーダンコールが繰り返された。
[編集] ビジネス
1980年代にNBAでプレイし初めて以降、ジョーダンは多くの企業と広告契約を結び、様々な事業を手がけてきた。ジョーダンはプロバスケットボールのみならず、本業以外で得る収入の大きさではスポーツ界でも際立った存在になった。
ジョーダンが最初期にかかわり、以後も最も重要になったのはスポーツ用品メーカーナイキとの関係だった。ジョーダンは新人のシーズンよりナイキとの契約を結び、自身の名前をブランドに取り入れたバスケットボールシューズ「エア・ジョーダン」シリーズの生産・発売が開始された。
エア・ジョーダンシリーズのテレビCMの制作には、当時新人の映画監督だったスパイク・リーが起用された。ジョーダンの運動能力を強調しつつも奇抜な演出を取り込んだリーのCMはヒットし、ジョーダンの人気とも相まってエア・ジョーダンは爆発的な売上を見せた。ジョーダンは当時としては画期的だった歩合制の契約を結んでおり、シューズの売上に比例してジョーダンの収入も上昇した。ナイキ自身も当時業界1位だったコンバースを抜くことになった。以後NBAのスター選手の多くはナイキと同様の契約を結ぶようになった。
エア・ジョーダンに関しては、主に二つの点で批判が起きた。一つは、このシリーズがあまりにも人気を博したため、少年少女たちがシューズを狙った強盗の被害に遭う事件が起きていたことだった。もう一つは、エア・ジョーダンを生産するために発展途上国の児童たちが低賃金で働かされているというものだった。どちらも解決策を見つけるのは困難な問題であり、ジョーダンも明確な反論はしていない。
ジョーダンは食品関係の広告も幅広く行った。マクドナルドのCMに出演し、地元のシカゴでは「マクジョーダン・スペシャル」というメニューが出された。ゲータレードのCMで採用された「マイク(マイケル)みたいになりたい」という歌は広く知られた。他にコカ・コーラのキャラクターになったほか、シリアル食品「ウィーティーズ (Wheaties)」でもジョーダンの姿がパッケージに登場した。
ジョーダンは下着メーカーヘインズとも広告契約を結び、香水・装飾品メーカーのビジャンからは「マイケル・ジョーダン・コロン」が発売された。1996年には映画『スペース・ジャム』に出演し、アニメのキャラクターバッグズ・バニーやラリー・バード、チャールズ・バークレー、俳優のビル・マレイらと共演した。
ジョーダンはシカゴやニューヨーク、故郷のノースカロライナ州にレストランを持っている。
また、AMAスーパーバイクシリーズにチームを持っており、Moto-GPを観戦する姿が度々報道されるなど、かなりのバイク好きでもある。2004年のバレンシアGPでは自らの手でMotoGPマシン(ドゥカティ・デスモセディチ)を試乗した。
[編集] ジョーダンのムーブメント
1991年の初優勝と1992年のオリンピック出場を経て、ジョーダンの人気は別な次元に上がったかのように見えた。国際的に知名度が上昇したのみならず、国内では行く先々で人々がジョーダンのもとに殺到し、人並みの日常生活を送ることすらままならないほどになった。
ジョーダンを主題にした Hang Time と Rebound の著者である記者・作家のボブ・グリーンはジョーダンがエルビス・プレスリーの再来であり、「アメリカ文化の頂点に登り詰めた」と表現した。
人々はジョーダンが史上最高のバスケットボール選手であると論じるばかりか、ベーブ・ルース、モハメド・アリと比較するなどバスケットボールを超えた文脈で彼の存在を語るようになった。
ロナウジーニョ、野茂英雄、イチロー、デビッド・ベッカムなど世界の超一流プロスポーツ選手もジョーダンに憧れ、尊敬している人物は多い。
ジョーダンがここまでの存在になったのは、いくつかの要因があると考えられる。
- 運動能力
- ジョーダンは歴史的に見ても非常に高い運動能力を持っており、見る者の注目を集めるのに十分だった。彼は人が見たこともない動きをしばしば見せ、特に空中でのプレイは見る者を驚嘆させた。ニックネーム「エア」の名の通り垂直飛びは122cmを記録し、実況するアナウンサーはジョーダンがジャンプすると「TAKE OFF(離陸を開始した)」と表現したほどである。ジョーダンの個人能力が注目されるようになったのは、シカゴの市場が比較的大きかったこと、キャリア初期にブルズの監督を務めていたケヴィン・ローリーがジョーダンを自由にプレイさせる方針を採ったことも要因になった。またティム・グローバーを専属トレーナーに雇い、故障に強い体を作り上げた。
- 80年代のNBAの隆盛
- 1970年代末期には、NBAの人気は低迷しており、リーグのイメージもあまりよくなかった。しかしデビッド・スターンがコミッショナーに就任しリーグの再建に努めたこと、マジック・ジョンソンとラリー・バードのライバル関係が大いに注目されたことなどから、NBAの人気は上昇していった。マジックとバードがキャリアの末期に入る頃には、次のジョーダン時代への土壌が十分に出来上がっていたと言える。この時代にケーブルテレビが普及したこともこの流れを助けた。
- 商業的な成功
- ジョーダンは商業的に最も成功を収めたスポーツ選手の一人である。1998年の時点で、Fortune誌はジョーダンがプロ入り以降100億ドルの経済効果を上げたと述べている。これは本業のバスケットボールだけでなく、ナイキ、マクドナルド、コカコーラ、ゲータレードなどとのスポンサーシップなしには果たし得ない。特に1980年代に、当時新進気鋭の映画監督だったスパイク・リー指揮によるナイキの一連のCMが成功したことが大きい。
[編集] その他
1989年に結婚、妻との間にジェフリー、マーカス、ジャスミンという二男一女をもうけた。ジョーダンはイリノイ州ハイランドパークに居を構えている。ジェフリーとマーカスは同じ高校に通いバスケットボールをプレイしている。ファニータ夫人は2002年に離婚訴訟を起こしたが、のちに和解した。だが2006年12月29日、ジョーダン夫妻は「17年間の結婚生活に円満に終止符を打つことを決意した」との声明を発表し、離婚した。
ジョーダンは最も早い時期に頭をスキンヘッドにしたNBA選手の一人だった。彼が年齢のわりに早く禿げ始めたことが理由の一つだったが、1990年代初頭以降スキンヘッドは北米の若者、特に黒人男性の間ではファッションとして受け入れられるようになった。
同じ時期、ジョーダンは大きめのショーツ(バギー・ショーツ)を穿いて試合に出るようになった。この頃にはミシガン大学のファブ・ファイブと呼ばれた選手たちも同様のスタイルで話題を集めており、90年代のNBAではバギー・ショーツが主流になった。
ジョーダンは、プレイ中に集中している時には舌を出す癖があることでも有名だった。彼の祖父にも同様の癖がある。
日常生活ではゴルフを愛好しており、試合のある日に数ホール回ることもしばしばあった。ゴルフ好きが行きすぎ、1990年代前半には賭けゴルフが社会の批判を浴びたこともあった。
1990年に、オールスター戦前夜の3Pシュートコンテストに出場したが、歴代最小記録の5点に終わった。
[編集] 関連項目
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