セバスティアン1世 (ポルトガル王)
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セバスティアン1世(Sebastião I, 1554年1月20日 - 1578年8月24日)は第16代ポルトガル王(在位:1557年 - 1578年)。「熱望王」(o Desejado)と呼ばれる。ジョアン3世の五男(第8子)ジョアンとスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の娘フアナの子。
父ジョアンの母カタリナはカルロス1世の妹、母フアナの母イサベルはジョアン3世の妹であり、セバスティアンの両親は父方と母方の双方で従姉弟の関係にあった。
未成年の間、初めは祖母カタリナ・デ・アウストリアが、次いで大叔父の大司教エンリケが摂政を務めた。
1562年、スペイン王フェリペ2世の王女イサベル・クララ・エウヘニアに婚約を申し込むが、フェリペが延期を申し出る。
1567年、南アメリカで、ポルトガル軍は砦を築いていたフランス軍を撃退し、リオ・デ・ジャネイロを占領した。1570年にはアンゴラの植民地化を開始した。着々と進むインド、アフリカ、ブラジルの植民地拡大に加え、ジョアン3世が熟慮の末放棄したモロッコの要塞の再征服を夢見るようになる。
1578年8月24日、アルカセル・キビールの戦いでポルトガル軍は惨敗、王は戦死したが、遺体は見つからなかった。嫡子がなかったため、摂政エンリケが王位を継承した。
[編集] 伝説
アーサー王や神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサのように、セバスティアン王はポルトガルが危機になると復活して国を救う、と民衆に信じられた。特に、スペイン・ハプスブルク家支配が60年続いた頃には、セバスティアン王を僭称する者(このときはイタリア人だった)が現れた。
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