セヴァストポリの戦い (第二次世界大戦)
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セヴァストポリの戦い(セヴァストポリのたたかい)は、1942年6月からのナチス・ドイツのソヴィエト連邦カフカス地方への攻勢(ブラウ作戦)の準備として行われた、1941年9月-1942年7月にかけての、クリミア半島とセヴァストポリ要塞でのドイツ軍とソ連軍の戦闘である。
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[編集] 戦いの背景
クリミア半島は黒海に面し、東方のケルチ半島が黒海とアゾフ海を分かつ、戦略上の要衝である。ソ連黒海艦隊の基地と、ソ連随一の要塞セヴァストポリ要塞があり、ケルチ海峡を挟んで隣接するソ連南部のカフカス地方制圧のために、絶対に占領しておく必要があったが、陸路の侵攻ルートは地峡が多く、制圧は難航した。
[編集] 戦いの経過
[編集] ペレコプ地峡突破
クリミア半島の制圧を任されたマンシュタインの第11軍は、1941年9月24日幅わずか7kmのペレコプ地峡に攻撃を開始。狭い地峡に奥深く敷かれたソ連軍陣地に苦しめられ、3日間激戦が続いたが、何とか突破、クリミア半島東部ではケルチ半島を、南部ではヤルタを制圧し、セヴァストポリ要塞を一時包囲した。
[編集] ソ連黒海艦隊の反撃
しかし、黒海艦隊は健在で、12月、海軍陸戦隊をケルチ半島に上陸させた。セヴァストポリにほとんどの部隊を集結させていたドイツ軍に対し完全に奇襲となり、東端のケルチにいた弱体な歩兵師団が包囲されてしまった。ドイツ軍はセヴァストポリの包囲を解いて反撃に出たが、ケルチ半島は東西に長く南北の幅は狭い地峡で、歩兵師団しか配属されていなかった第11軍はソ連の何重もの防衛線の突破に手間取り、翌年6月まで続く長期戦となったが、ブラウ作戦には何とか間に合った。
[編集] セヴァストポリ要塞攻囲戦
6月7日、セヴァストポリを再度包囲したドイツ軍であったが、ケルチ半島での戦闘の間に、要塞北面の地峡に多数の要塞砲(Marat型戦艦の主砲を陸上に設置した感じで、密閉式の砲塔に三連装主砲を設け、地下に旋回装置・弾薬庫・自動装填装置・兵員の居住区が設けられていた)とトーチカ群が設けられており、工兵が爆破処理するのは不可能であった。
そこで、マンシュタインは、新旧・大小問わず1,300門もの大砲をかき集め猛砲撃を加えた。その際、ドイツから80cm列車砲「グスタフ」を分解して持ち込んだ。グスタフは、鉄道のレールの上に設置する80cm40口径の大砲で、最大射程47km、弾薬も普通の榴弾の他に先端に徹甲弾・後ろに大量の爆薬を詰めた砲弾も使用された。旋回できないのが難点だったが、ゆるいカーブの付いたレールを敷くことで射角を確保した。なお、同砲は列車砲ではあるが設置するのに複線が必要な上、設置用のクレーンで更に外側に二本、合わせて四本もの鉄道路線が必要であり、事実上自走できないに等しい。
グスタフを始め、重榴弾砲が開けた突破口から、短射程の砲が突入し、しらみつぶしに敵陣地を破壊していった。特に命中精度は低いものの大量の爆薬をばら撒けるロケット砲は、密集したトーチカ攻撃に有効であった。急降下爆撃機による支援も行われた。
5日間の猛砲撃・爆撃で、要塞北面の陣地は全て破壊され、セヴァストポリ市街と軍港の包囲が始まった。要塞東面・南面にも防御陣地と砲兵隊が配置されていたが、北面ほど強力ではなく、次々と突破され、7月3日セヴァストポリは陥落した。
その後、第11軍をケルチ海峡を渡ってカフカス地方へ進撃させる案もあったが、ヒトラーは却下し他の戦線へ転属となった。
[編集] 戦闘後のセヴァストポリ
ナチス・ドイツが劣勢になるとクリミア半島は負担以外の何者でもなかった。この地を維持するために必要な物資に対してこの地の価値が低下していったからである。にもかかわらずこの地をめぐる戦いは当時のヒトラーの命令によって不毛な戦いとなった。撤退の作業は低調であり、多くの損害を出した。具体的に言うと、死守命令が出された為に半島から脱出する事ができず、ソ連軍にペレコブ地峡を押さえられた後は完全な殲滅戦となった。
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