春の目覚め作戦
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春の目覚め作戦(はるのめざめさくせん;ドイツ語:Operation Frühlingserwachen)とは、1945年3月6日から3月15日にかけてハンガリー西部のバラトン湖周辺で展開された、第二次世界大戦におけるドイツ軍の攻勢を指す。バラトン湖の戦い(Plattenseeoffensive)とも呼ばれる。
[編集] 計画
ソ連軍は1945年1月からのハンガリー攻勢で2月14日に首都ブダペストを占領した。ヒトラーはバルジの戦いで主力となった第6SS装甲軍(ゼップ・ディートリッヒ親衛隊上級大将指揮)を西部戦線から引き抜いて送り込んだ。ヒトラーは戦争継続のためには、石油の安定供給が絶対不可欠と考えていたため、ハンガリーの油田を非常に重要視していた。ヒトラーはハンガリー戦線での主導権を取り返し、油田の確保、ブダペスト奪還を企図した。
1月から展開されたヴィスワ川からオーデル川へのソ連軍進撃により、すでにソ連軍前線から首都ベルリンまで100キロ以内に迫り、ベルリン総攻撃は間近と見られていた。このため、グデーリアンを始めとする陸軍参謀本部は、ベルリン正面の防衛を最優先すべきと考えていた。また、ハンガリーは副次的戦線であり、戦局の大勢には影響しない上、ドイツ軍にはすでに攻勢に出るだけの余力はないと判断していたため、かねてからベルリン正面の防衛に物資や兵員を優先して送るよう求めていたが、ヒトラーはこれらの意見を却下し、春の目覚め作戦開始を決めた。
作戦は、ハンガリー南部を担当するソ連第3ウクライナ正面軍をバラトン湖を挟んだ南北から挟撃、分断することでハンガリー西部におけるソ連軍の軍事的脅威を完全に排除することを目指した。第6SS装甲軍と第6軍は共同してバラトン湖北側から攻撃してソ連軍第27軍と第28軍を分断し、バラトン湖南岸に配置した第2装甲軍は、バラトン湖南側に展開するソ連第56軍の攻撃に割り当てた。ドイツ側の両軍は合流し、最終的にドナウ川西岸からソ連軍を掃討する構想だった。
ソ連軍は事前にこうした攻勢の可能性を察知し、ウィーンへの攻勢を準備しつつ、攻勢が予想される地点に防御陣地を構築していた。
[編集] 概要
ドイツ軍は3月6日以降、第6SS装甲軍、第6軍はバラトン湖東端付近から攻勢を開始した。当初の予定通り、左翼はソ連27軍と28軍の間を分断しつつ南下し、南方で戦う第2装甲軍との連結を目指した。右翼は東進し、ドナウ川へ到達しブダペストを目指した。第2装甲軍はバラトン湖南岸から東進し、ソ連第56軍を攻撃した。
ソ連軍の堅固な対戦車陣地や砲撃による激しい抵抗に遭いながらも、第6SS装甲軍は侵攻を続けたが、南部を担当する第2装甲軍の攻撃は頓挫していた。また、雪解けの季節にあったため、もともと湿地帯だった戦闘地域は雪解けにより泥濘化し、戦車による進撃は難しかった。こうしたさまざまな悪条件のため、15日には作戦前の戦線から最大40kmの地点で、ドイツ軍の攻勢は止まった。
翌16日、ソ連軍がブダペスト西部からウィーン攻勢を始めると、主力を温存していた第3ウクライナ正面軍も反攻に出た。このため、第6SS装甲軍は10日で100km以上押し戻されてバラトン湖から大きく後退し、作戦は完全に失敗に終わった。
[編集] 影響
バルジの戦い初期に一定の成果を上げ、ドイツ軍の切り札にもなりえた第6SS装甲軍を、最重要なベルリン防衛ではなく、遠く離れたハンガリーで攻勢に用い、戦果をあげられず戦力の消耗に終わったこの作戦は、大戦末期におけるヒトラーの拙劣な戦争指導を示す好例としてよく挙げられる。
また、本来ベルリン防衛に回すべき物資やベテラン兵士をこの作戦に優先的に割り当てたため、4月から始まったベルリンの戦いでは、兵力不足でベルリン正面の防衛は簡単に破られ、総攻撃の開始5日後にはベルリン市街へのソ連軍の突入が始まり、子どもや老人までが市街戦に駆り立てられることになった。
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