クルスクの戦い
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クルスクの戦い | |
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![]() 牽引されるソビエト軍の戦車T-34 |
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戦争: 独ソ戦 | |
年月日: 1942年7月4日 - 1943年8月27日 | |
場所: クルスク、ソ連 | |
結果: ソ連軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指揮官 | |
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥 | ニコライ・ヴァトゥーチン ゲオルギー・ジューコフ元帥 |
戦力 | |
歩兵 800,000 戦車 2,700 航空機 2,000 |
歩兵 1,300,000 戦車 3,600 航空機 2,400 |
損害 | |
戦死・戦傷・捕虜 500,000 戦車 500 航空機 200 |
戦死・戦傷・捕虜 607,737 戦車 1,500 航空機 1,000 |
クルスクの戦い(クルスクのたたかい;ロシア語:Курская битваクールスカヤ・ビートヴァ、1943年7月4日 - 1943年8月27日)とは第二次世界大戦中の東部戦線において、ドイツ軍とソビエト連邦軍との間で行われた戦闘をさす。ロシアの都市クルスクの周囲に形成されていたソビエト側の戦線の突出部(バルコン)をドイツ軍が解消しようとしたために起こった。クルスク戦車戦、クルスク会戦とも呼称される。
目次 |
[編集] 背景
1943年上半期の第三次ハリコフ攻防戦の結果、独ソ戦の戦線はクルスクを中心にソ連側が突出する形となった。ドイツ軍にはこれまでの消耗により広大な戦線で大攻勢をかける力はもはやなく、局地的な攻勢を行って東部戦線を安定させ、予想される西側連合国の大陸反攻に備えて必要な予備兵力を確保することが計画された。クルスク周辺を中心とするソ連軍の突出部へ先制攻撃をかけるべきか、防衛戦後に追撃戦を行いソ連軍を撃滅するべきか検討し、最終的にアドルフ・ヒトラー、参謀総長ツァイツラー、クリューゲ中央軍集団司令官等の主張によりクルスクの突出部へ先制攻撃をかけることが決定された。作戦名はツィタデレ(城塞)と名付けられ、作戦発動は1943年5月中旬と予定されたが最終的には7月4日となった。
ドイツ軍の電撃戦の立役者である装甲部隊は、過去二年の東部戦線の激戦で消耗し切っていたが、1943年3月にその生みの親であるハインツ・グデーリアン上級大将が装甲兵総監に就任し、装甲部隊の再建にあたることとなった。これまでソ連のT-34中戦車やKV-1重戦車に苦戦を強いられてきたが、1942年下半期にティーガーI重戦車が投入されたのを皮切りに、ツィタデレ作戦までにさらにパンター、フェルディナント、フンメルなどの新兵器が投入され、既存の戦車にも改良が加えられて、装甲部隊は自信を取り戻していた。ドイツ軍はこの作戦に東部戦線の戦車及び航空機の内6割から7割を動員し、最終的な参加兵力は兵員90万人、戦車及び自走砲2,700両、航空機1,800機に及んだ。
一方ソ連軍は優秀な諜報組織によってドイツ軍の作戦を早期に察知し、クルスク周辺一帯に大規模なパック・フロント(対戦車陣地)を構築し、ここに兵員133万人、戦車及び自走砲3,300両、火砲2万門、航空機2,650機に及ぶ兵力を配置してクルスク一帯を要塞化した。さらに兵員130万、戦車及び自走砲6,000両、火砲2万5000門、航空機4,000機を超える予備兵力を前線後方に待機させた。
[編集] ドイツ軍の部隊配置
- 中央軍集団(北部よりクルスク突出部を攻撃)
- 第9軍
- 第2装甲軍
- 第2軍
- 第6航空軍
- 南方軍集団(南部よりクルスク突出部を攻撃)
- 第4装甲軍
- ケンプ軍支隊
- 第4航空軍
[編集] 経過
突出部北部を担当していたヴァルター・モーデル率いる第9軍は何重にも作られたソ連軍防御陣地によって装甲部隊に多大な損害を出し、最大12kmしか進出出来ず進撃が停止してしまった。一方南部ではマンシュタイン率いる南方軍集団がソ連軍南部防御線の外周部分は突破し、多くの損害を出したものの最も成功した部分では35km北北東(しかし、クルスクまでは直線でも90kmの道程を残す)へ前進を続けた。しかしソ連軍は東方に待機させていた予備兵力を前線に逐次投入して徹底抗戦をおこなった。
攻勢開始後1週間が経過すると北部では進撃が完全に停止してしまい、南部でも進撃が遅滞していた。ここでドイツ軍はソ連軍の東方からの増援を阻止するため、クルスク南部の小都市プロホロフカの奪取を目指し、ここで後に「史上最大の戦車戦」と呼ばれるプロホロフカ戦車戦がおこった。
ソ連の公式戦史(ML研究所編・第二次世界大戦史など)、それを参考にした1980年代までの古い資料、またはそれを事実として描いた映画『ヨーロッパの解放・第一部』では 大規模(ドイツ側・第2SS装甲軍団の750輌+ソ連側・第5親衛戦車軍850輌)な戦闘で、強力なドイツのティーガー戦車に対し至近距離まで突撃したT-34戦車によって勝利がもたらされたような描写であったが、これは戦後のソ連のプロパガンダであり、ソ連崩壊後に事実が知られるようになったにもかかわらず、未だにこの古い捏造されたイメージでクルスク戦を語る人は多い。
- この戦いにおけるソ連の公式戦記の捏造例として、KV-1重戦車でティーガー戦車隊に体当たりを敢行するなど奮闘した、第5親衛戦車軍のスクリプキン大隊のエピソードがある。現実には同隊の装備はKV-1ではなくイギリスからレンドリースされたチャーチルMk.III歩兵戦車であり、また後述するようにティーガーはほんの少数しかその場に居なかったことが記録されている。戦車を変更したのは、西側の援助した戦車で活躍したなどとは冷戦期に書けず、相手をティーガーとしたのはIV号戦車と誤認したか、華々しさを増す演出と考えられる。
当時の戦闘記録によると、実際にはソ連戦車は自ら築いた対戦車壕によって接近がままならず、ドイツ側の主力・第2SS装甲軍団の一部でしかないLSSAH師団の戦車(III号、IV号戦車)・自走砲(III号突撃砲、マルダーIII)、合計約90輌による防御砲火により、ほぼ一方的にソ連側が粉砕され、256輌を失った。LSSAH師団の損害は全損車わずか2輌、他の損傷車輌は修理可能で、14日には稼動88輌に回復していた。相手をティーガーと思い接近したことが、逆にドイツ軍の75mm砲での撃破を容易にした結果であった。ソ連側は砲塔にシュルツェンを装備したIV号戦車をティーガーと誤認したふしもある。ちなみに、この時その場で稼動していた本物のティーガー戦車はLSSAH戦車連隊第13中隊の僅か4輌にすぎない。
十分な防御体制を整えドイツ側に大きな損害を与えながらも、ソ連側の被害もまたそれ以上に甚大であり、特に南部ではドイツ軍の突出(35km程度だが)を許しており、プロホロフカで消耗したステップ方面軍に危機が迫っていた。しかし、ソビエト軍の逆攻勢クツゥーゾフ作戦開始と連合軍がシチリア島に上陸を開始、これに危機感を覚えたヒトラーによって作戦は中止となってしまう。マンシュタインは回顧録で戦果の拡大は可能だったように記述しているが、彼は予備のステップ方面軍の存在を知らずにいた。もし継続した場合南方軍集団は機動戦力を完全に失っていただろう。
後衛戦闘を行いつつ撤退してしまったドイツ軍に対し、一息つくことのできたソ連軍は予備兵力をまとめ、反撃を開始した。これが独ソ戦でドイツ軍が攻勢に回った最後の戦闘であり、これ以降独ソ戦の主導権は完全にソ連軍のものとなった。
[編集] 参考資料
[編集] 文献
- Geoffrey Jukes(著)、加登川幸太郎(訳)、『クルスク大戦車戦;独ソ精鋭史上最大の激突』、サンケイ新聞社出版局、1972年
- J・ピカルキヴィッツ(著)(Janusz Piekalkiewicz)、加登川幸太郎(訳)、『クルスク大戦車戦』、朝日ソノラマ、1989年、ISBN 4-257-17214-2
- Geoffrey Jukes(著)、加登川幸太郎(訳)、『独ソ大戦車戦;クルスク史上最大の激突(サンケイ新聞社版の改題復刻版)』、光人社、1999年、ISBN 4-7698-2219-7
[編集] 歴史ゲーム
- コマンド・ベスト第3号 『クルスク大戦車戦』、国際通信社
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