ダニエル・ウールフォール
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ダニエル・バーリー・ウールフォール(Daniel Burley Woolfall、1852年6月15日 - 1918年10月24日)はイギリスのブラックバーン出身の人物で、国際サッカー連盟(FIFA)第2代会長を務めた。
ウールフォールはブラックバーンのグラマースクールを卒業し、税務所勤務のかたわらブラックバーン・ローヴァーズに関与するようになった(ただし選手としてプレーはしていない)。その後ブラックバーンの属するランカシャー州のサッカー協会会長を経て、イングランドサッカー協会(The FA)に関わるようになった。
彼は1906年にFIFA会長に推挙されると、イングランドとヨーロッパ大陸とのサッカーを共通化し、国際ルールを制定するよう尽力した。また1908年のロンドンオリンピック、1912年のストックホルムオリンピックにおいて、サッカー競技が正式種目となるよう奔走した。
ウールフォールはFIFAの拡大をも画策した。実際、彼の就任までFIFAの加盟国はヨーロッパに限られていたが、1910年には南アフリカ、1912年にはアルゼンチンとチリ、1913年にはアメリカが加盟した。これらの功績はジュール・リメに引き継がれ、後のFIFAワールドカップの隆盛をもたらすこととなった。
ウールフォールは66才のとき、現職会長として故郷ブラックバーンで死去した。
[編集] 外部サイト
Daniel Burley Woolfall - ブラックバーン行政区による歴史サイト(英語)
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