ダーウィン (オーストラリア)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダーウィン(Darwin)はオーストラリア連邦ノーザンテリトリー準州の首府である。人口は約11万人(2003年)。オーストラリア大陸北側のチモール海沿いに位置する。オーストラリアではアジアに最も近い位置にあることから、非常に多文化的な都市となっている。75の民族が見受けられ、人口の約4分の1がアボリジニなどの原住民である。また、ノーザンテリトリーで唯一の大学であるチャールズ・ダーウィン大学の所在地でもある。
目次 |
[編集] 歴史
- 主要記事:History of Darwin
ダーウィン港は1839年にイギリス海軍の軍艦ビーグル号のJohn Lort Stokesによって発見された。船長のJohn Clements Wickhamは、イギリスの自然科学者であるチャールズ・ダーウィンに由来して、この港をダーウィン港と名づけた。チャールズ・ダーウィンはビーグル号の以前の探検航海に同伴したことがあった。
ノーザンテリトリーは当初南オーストラリア州に属していた。1869年、イギリス政府の主任監督者G.W. Goyderによって、135人の男女がポートダーウィンに小さな入植地を建設した。Goyderはこの入植地に、イギリスの首相パーマストン卿にちなんでパーマストンと命名した。1870年に大陸間電信のための最初の電柱が建てられた。1880年代にはパイン・クリークで金が発見され、パーマストン入植地は大きく発展した。オーストラリア連邦政府は1911年にノーザンテリトリーを直轄地とし、同時にダーウィンが公式な名称になった。
太平洋戦争中の1942年2月19日に、ダーウィンは二度にわたって、242機の日本軍機による空襲を受けた。日本は、真珠湾を攻撃した時と同じ戦法でダーウィンを攻撃したが、おそらく、真珠湾の時よりも爆弾の数は多かったと考えられ、ダーウィンでの第二次世界大戦の歴史を考える上では、これは欠かせない事件である(日本のオーストラリア空襲)。この攻撃によって、少なくとも243人が死亡し、街は大きな損害を被り、これは当時のオーストラリアにとって、最も深刻な事件であった。又、これがダーウィンでの、初めての奇襲となった。
1974年12月25日にはサイクロンにより50人が死亡し、街の建物の70パーセントが破壊された。これにより約3万人が航空機により避難した。街は1970年代後半に新しい建材や技術により再建された。衛星都市であるパーマストンは、1980年代前半にダーウィンの南20 kmの位置に建設された。
2003年9月17日、オーストラリア大陸縦断鉄道が開通し、鉄路でアデレードと結ばれた。
[編集] 気候
ダーウィンは乾季と雨季を持つ熱帯気候帯にある。5月から9月までが乾季である。6月と7月が最も涼しい時期であり、気温は19℃から30℃である。雨季はサイクロンと季節風による雨を伴う。降水量の最も多い時期である12月から3月には激しい雷雨がよく発生し、湿度は70パーセントを超える。
[編集] 経済
ダーウィンの経済は政府支出にやや依存している。オーストラリア軍の東ティモール安定化への継続的な参加により、ダーウィンの軍関係の人口は増加した。ダーウィンの重要性は、チモール海の石油開発やアジアとの貿易の拡大によって、今後も増大すると予測されている。
近年鉄道が開通したが、物流の主流はトラックであり、中でもロードトレインと呼ばれる長大トラックが走る。
[編集] 姉妹都市
|