トゴン・テムル
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トゴン・テムル(Toγon-Temür, 1320年 - 1370年)は、モンゴル帝国(元)の第14代大ハーン(1333年 - 1370年)。漢字表記は妥懽貼睦爾。廟号は恵宗であるが、明の贈った諡の順帝で呼ばれることのほうが多い。モンゴル語の尊号はウカト・カアン(オハート・ハーン)。
1368年に大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、明側の記録では1368年に帝位を失ったものとして扱われる。
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[編集] 即位以前
トゴン・テムルは明宗コシラが暗殺の陰謀を逃れて中央アジアに逃れていたとき、中央アジア北東部のテュルク系遊牧民カルルク部族の族長の娘との間に長男として生まれた。カルルクは本来チンギス・ハーン王家の姻族ではなく、モンゴル王族としては母の出自はあまりよくない。
1328年、泰定帝イェスン・テムル死後に内乱がおこると、モンゴル高原を経て上都に戻ってきたコシラに従い宮廷に入ったが、コシラの急死により弟の文宗トク・テムルが即位すると、トク・テムルの甥であるトゴン・テムルは宮廷から遠ざけられ、はじめ高麗、ついで広西に流された。
1332年、トク・テムルが死去すると、皇后ブダシリは夫の遺志によりコシラの遺児をハーンに擁立することを議し、大都に留められていたトゴン・テムルの弟イリンジバルが即位したが、わずか2ヶ月で病死した。トク・テムルの即位以来、政権を握っていた権臣エル・テムルは改めてトク・テムルの子エル・テグスを即位させようとはかったが、その母であるブダシリによって固辞され、ブダシリの命によってトゴン・テムルが広西から呼び返された。
エル・テムルはコシラを毒殺したとも言われることから、既に13歳で分別のつく年齢になっていたトゴン・テムルがハーンに即位すれば、自分に対して悪意を持ち、権勢を削がれることを恐れた。そこで、トゴン・テムルが大都に到着した後も半年近くにわたって即位は引き伸ばされ、1333年春にエル・テムルが病死したのを受けて、夏になってようやくトゴン・テムルは即位することができた。
[編集] 治世前期の政争
トゴン・テムルは従弟エル・テグスを皇太子とし、その母ブダシリが太皇太后としてトゴン・テムルの政務を後見したが、実際にはエル・テムルの死後も軍閥が政権を握っていた。中でも、エル・テムルに代わり軍閥中の第一人者となったバヤンが中書右丞相に就任し、さらにエル・テムルの遺児が起こした反乱を鎮圧すると、かつてのエル・テムルとかわらない権勢を振るうようになった。
トゴン・テムルは成長して20歳を越えるとバヤンの専権を憎むようになり、1340年にバヤンと仲の悪いバヤンの甥トクトと結び、トクトにクーデターを起こさせてバヤンを追放した。この反乱の余波でブダシリとエル・テグスの母子は追放され、ようやくトク・テムル以来政権を牛耳ってきた勢力は一掃されたが、今度はトクトとその父マジャルタイが新たに政権を握ったに過ぎなかった。トゴン・テムルは、トクト父子の政敵である父のコシラやその前のイェスン・テムルによって取り立てられた重臣たちを味方につけ、1347年にトクト父子を甘粛に追放した。さらに1349年にはトクトを呼び戻し政権を授けるというように、トゴン・テムルは重臣間の政権争いの背後にたって権力闘争に明け暮れた。
しかし中央の人々が政権争いに終始している間に地方では天災と疫病が相次ぎ、民心は無策な元から急速に離れていった。1348年、元の財政を支えるために厳しすぎる塩の専売制を引いたことからこれに不満をもつ塩の密売商人が反乱を起こしたことをきっかけに、次々にモンゴルに対する反乱が起こった。中でも1351年に起こった紅巾の乱は中国全土を巻き込む大反乱となる。
[編集] 治世後期の混乱
1354年、トクトが大軍を率いて紅巾の乱の鎮圧に向かう途上、権臣が強大な軍事力を手中に収めたことを怖れたトゴン・テムルは、トクトを解任して追放した。これによってトゴンはハーンの権力を回復するが、トクトら中央政府の軍閥によって支えられていた軍事力が解体し、もはや軍事的に頼れるのは地方軍閥のみという惨状を露呈した。
しかし、治世前期には重臣の勢力争いに介入して活躍したトゴン・テムルも、その治世の後期に入ると次第に政治に対する意欲を失い、政治の混乱が深まった。もともとトゴン・テムルは広西の配所で漢文の教育を受けて『論語』を学び、自ら作文・書画に手を染めるなど、トゴン・テムルもその画を好んだという北宋の徽宗のような、漢族の文人皇帝にきわめて似た気質があった。トゴン・テムルが高麗から広西に流された時代には、彼を帝位から遠ざけたいエル・テムルの陰謀により、中央アジアで生まれたトゴン・テムルは実はコシラの実子ではないと宣言されていたこともあって、民間では実は南宋の最後の皇帝恭帝の遺児であり、父の急死後に親交のあったコシラに引き取られたとの俗説までささやかれたほどである。そのうえモンゴル王族らしくチベット仏教の秘儀に耽溺し、宮廷に篭りがちになった。
やがて、1353年に皇太子に冊立されていた王子アユルシリダラが成人すると、皇太子は生母奇皇后を後ろ盾にして政治権力の奪取をはかり、ハーンにかわって政治を握っているトゴン・テムルの側近たちと激しく対立し始めた。トゴン・テムルはこの政争の調停に何ら力を発揮できず、1364年に山西地方を本拠地とする軍閥ボロト・テムルが大都を占拠して皇太子を追放し、翌1365年には河南の軍閥ココ・テムルがアユルシリダラと結んでボロト・テムルを滅ぼすという事態に陥った。この内紛の結果、大都の中央政府の政治力と軍事力はほとんと壊滅的な状況となる。
[編集] 元の北走
1368年に江南で反乱勢力を統一して明を建国した朱元璋の送り出した北伐軍に連戦連敗した。頼みのココ・テムルも将軍徐達によって破られ、明軍が河北に迫ると、トゴン・テムルは大都を放棄してもうひとつの首都上都に逃れた。
1369年、上都もまた明軍の手に落ち、トゴン・テムルはさらに北にあるモンゴル高原南部の都市、応昌府に入った。1370年夏、トゴン・テムル・ハーンは応昌府で死に、皇太子アユルシリダラが即位する。
トゴン・テムルが死んだ時点では、依然として元はモンゴル高原を中心に勢力を保って、東は日本海から西はアルタイ山脈まで支配下においており、さらに甘粛や雲南にも明に従わないモンゴル系勢力がいて明の中国支配はまだ磐石ではなかった。しかし、明はトゴン・テムルが大都を放棄した時点で中華王朝としての元が天命を失い、滅亡したとみなすことにし、トゴン・テムルやアユルシリダラを皇帝ではなく単に元主と呼んだ。
明にとって最後の元朝皇帝であるトゴン・テムルに対し、明は「天意に順じ明に帝位を譲った」という意味の順帝という諡号を贈る。実際には、恵宗トゴン・テムル以降も、モンゴル高原ではクビライの血を引く者がハーンに立ち、漢風廟号を贈られた。このトゴン・テムル以降の元は北元と呼ばれている。
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