トヨタ・MP-1
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トヨタMP-1はトヨタ自動車が1975年の東京モーターショーで参考出品した自動車。
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[編集] 概要
1975年10月31日から11月10日まで開催された第21回東京モーターショー(東京晴海)にトヨタ マルチパーパスワゴンMP-1が参考出品された。5代目クラウン2600をベースに製作されたプロトタイプだったが『ただちに生産に移してもおかしくない』と評されていた(下部参考を参照)。MPとはマルチ・パーパスで、ユーザーが多目的に使える車両として開発された。トヨタは当時『未来の乗用車の姿を表した』と表現していたが、今日振り返ってみれば、ミニバンコンセプトを先取りした車両だった。
[編集] 車両構造
その構造はクラウンベースであり、クラウンが3代目から9代目まで1967年~1995年もの長期にわたり使用していたペリメーター・フレーム構造で、モノコック構造より重量に耐えられ、しかも室内空間が大きくとれるものとなっている。
一見ルーフは車両後方までつながていて後部はハッチバックタイプなのでクラウンのステーションワゴン仕様のように見える。しかしエンジンルーム開口部は現在の1.5ボックスミニバンのように短く抑えられ強い傾斜をもっている。ボディはより大きく全長4800mmx全幅1890mmx全高1680mm。当時のボディとしてはかなり大きなボディで、しかも運転席自体がより前方に位置しているため後方のスペースが十分に配慮されている。
車高が高いのはシート1列目後方から屋根が一段高くなっているからでもある。その段差には明り取りの窓もつけられている。その構造はクラウンベースのために(クラウンが長らく使用していた)ペリメーター・フレーム構造で、モノコックよりも重量に耐えられ、しかも室内空間が大きくとれる多人数乗車には、当時を考えれば最適なものとなっている。
三列シートではあるが、三列目は後方向きでありフロアも高く足は後方に投げ出すような格好をもつもので、エマージェンシーもしくは子供用となっている。また、それは、ステーションワゴンモデルでクラウンやセドリック/グロリアがすでに実現していたものでもある。この部分の三分の二は折りたたんでフラットになり大きなカーゴ部分として使用できる。
注目すべき点は、スライドドアの使用である。車両左側だけではあるが、スライドドアが採用され、しかも、現在福祉車両で用いられる車椅子一台が載ることができる大きさの電動式のステップが取り付けられていた。そのためスライドドア側の2列目キャプテンシートは取り外し可能となっていた。
1列目と2列目のシートはキャプテンチェアで、コラムシフトであるため、1列目と2列目は車内で行き来ができる。FR車だが車内はフラットに作られていた。1列目シートは回転シートで、後方を向け、2列目と対面式になる。
[編集] ミニバンの祖先
見かけはステーションワゴンを大きくしたような車両であるが、機能的には今日のミニバンの要素を兼ね備えた車であった。
この車両は、レジャー用車両、エグゼクティブカー、ビジネス車両、高級タクシーなどに対応できることを目的として設計されたという。
60年代末期から70年代前半の石油ショック以前までは日本でも高度成長期がある程度達成され、また米国の影響を受け国もレジャーに向けた施策を打ち出しはじめたところで、自動車業界でもレジャー用車両が登場してきた頃である。小型ではスズキジムニー、バモスホンダなどレジャー用車両が発売されはじめた頃だが、これらレジャーを前提に製作している軽車両でも実際の販売ともなれば多くはビジネス用途での販売も考慮したものになっていた。73年のモーターショーには三菱がスポーツジープを参考出品されている。のちのパジェロのベースとなった車である。ところが、この年の12月に第一次石油ショックが起こり、景気は冷え込む。翌年74年のモーターショーは中止された。
このような状態の中再開されたモーターショーに参考出品されたMP-1であったが、その完成度はかなり高かったと報じられている。もし石油ショックがなければ日本のミニバンはもっと早い時期にやってきたかもしれない。1977年には米クライスラーや仏マトラは欧米でミニバン相当車の開発をスタートさせ、また三菱も同年に開発スタートさせた試作車を81年に第24回東京モーターショーでSSW(スーパースペースワゴン)として参考出品している。トヨタもこのとき多目的4WD車両RV-5を参考出品しのちのスプリンターカリブとなるが、ミニバンのエリアは三菱シャリオそして日産プレーリーに先を越されてしまった。トヨタはソアラ、マークIIを中心としたハイソカーブームに乗っていたからでもある。キャブワゴンベースで同時期に起こったワンボックスブームはトヨタ車では扱いやすいタウンエースが主流だったがそれはトヨタの意図ではなくユーザーがつくたものだった。トヨタがこのエリアを狙って実際に車を投入したのは米国に先に紹介された90年のエスティマからとなる。しかも、そのブームは94年のホンダ・オデッセイからだったのである。しかしながら、トヨタのこの時期の先見性は注目すべきである。
[編集] 参考
CAR GRAPHIC誌 1976年1月号(1975年11月30日発刊) P26-27:モーターショー特集のトップで2ページにわたり紹介している。ただし、『試作車も人を驚かすだけのものは影をひそめ、自動車の新しいコンセプトと新しいパワープラントを模索するものが散見されたにとどまった。このショーを不興から救ったものがあるとすれば、それは幾つかの新型モーターエンジンと早くも海を渡ってお目見えしたジャガーXJ-S、プジョー604などの輸入車群であったろう。』と「不作のなかでの注目株」という扱いだった。時代は早すぎたのである。
[第21回東京モーターショー]:東京モーターショー公式サイトによる英語での紹介記事。記事中MP-1についてもふれられている。(日本語は見当たらない)