ドラ・ブースビー
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女子 テニス | ||
銀 | 1908 | シングルス |
ドラ・ブースビー(Dora Boothby, 1881年8月2日 - 1970年2月22日)は、イングランド・ミドルセックス州フィンチリー出身の女子テニス選手。フルネームは Penelope Dora Harvey Boothby (ペネロペ・ドラ・ハーベイ・ブースビー)という。ウィンブルドン選手権で1909年の女子シングルスと1913年の女子ダブルスに優勝した選手で、1908年ロンドン五輪の女子シングルス銀メダルも獲得している。彼女のライバルには、1903年から1914年にかけてウィンブルドン選手権の女子シングルスに「7勝」を挙げたドロテア・ダグラス・チャンバース(1878年 - 1960年)などがいた。
ドラ・ブースビーがウィンブルドン選手権に挑戦を始めたのは、1904年からであった。1908年のロンドン五輪では、テニス競技は男女シングルスと男子ダブルスの3部門が実施され、ブースビーは女子シングルス決勝でドロテア・ダグラス・チャンバースに 1-6, 5-7 で敗れて銀メダルになる。五輪で銀メダルを獲得した年、ブースビーは初めてウィンブルドン選手権の「チャレンジ・ラウンド」(挑戦者決定戦)準決勝に勝ち上がった。その翌年、1909年の「チャレンジ・ラウンド」決勝でブースビーはアグネス・モートン(1872年 - 1952年、アガサ・モートンとも呼ばれる)と対戦した。ブースビーが 6-4, 4-6, 8-6 でモートンを破った試合は、当時の新聞で「みなぎる緊張感と、引き延ばされた長いラリーが印象的で、これまでのウィンブルドン女子シングルス決勝を通じてもストロークの変化に富んだ、より科学的な試合であった」と賞賛された。当時のウィンブルドン選手権は、無条件で決勝に出場できる大会前年優勝者と、「チャレンジ・ラウンド」の優勝者が決勝を争う「オールカマーズ・ファイナル」方式を採用していたが、1908年度の優勝者シャーロット・クーパー・ステリーが「オールカマーズ・ファイナル」に出場しなかったため、ここでブースビーのウィンブルドン初優勝が決定した。
ところが、ブースビーは1910年の「オールカマーズ・ファイナル」でドロテア・ダグラス・チャンバースに 2-6, 2-6 で敗れ、女子シングルス連覇を逃してしまう。1911年に2度目のチャレンジ・ラウンド勝者となるが、決勝ではまたもやチャンバースに敗れて2年連続の準優勝に終わり、この度は 0-6, 0-6 (試合時間22分)で惨敗した。それから2年後、1913年のウィンブルドン選手権女子ダブルス部門で、ブースビーはウィニフレッド・マクネアー(1877年 - 1954年)とペアを組み、決勝でドロテア・ダグラス・チャンバース&シャーロット・クーパー・ステリー組と対戦した。相手チームが 6-4, 4-2 のリードを奪いながらも途中棄権したため、ブースビー&マクネアー組が優勝した。ブースビーは1914年にA・C・ジーンと結婚し、1970年2月22日にロンドン・ハンマースミスにて88歳で逝去した。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- バド・コリンズ著『テニスのすべて-究極のテニス百科事典』(英語、2003年刊、ISBN 0973144343、スポーツ・クラシック・ブックス)
- マーティン・ヘッジズ著『コンサイス・テニス辞書』(英語、1978年刊、ISBN 0831717653、メイフラワー・ブックス)
- ランス・ティンゲイ著『ウィンブルドンの100年史』(英語、1977年刊、ISBN 0900424710、アルファ・オメガ社)
カテゴリ: イングランドのテニス選手 | 1881年生 | 1970年没