自由都市ダンツィヒ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
自由都市ダンツィヒ(英:Free City of Danzig、独:Freie Stadt Danzig、ポーランド語:Wolne Miasto Gdańsk)は、現在のグダニスク (ドイツ語ではDanzig)に、ナポレオン時代、両大戦間期の二度にわたり存在した都市国家である。日本語では、ダンツィヒ自由都市、ダンツィヒ自由市等とも記述される。
目次 |
[編集] ナポレオン時代のダンツィヒ (1807年~1815年)
最初の自由都市ダンツィヒ(ダンツィヒ共和国の名で書かれることもある)は、ナポレオン戦争中の1807年9月9日にナポレオンにより設立された半独立の州である。その領土はプロイセン王国の一部とされ、農業が盛んなヴィスワ川河口と、ヘル半島、ヴィスワ岬の南半分にあるダンツィヒの都市で構成されていた。この州は1813年1月22日に終わりを迎えた。
1815年のウィーン会議の後、ダンツィヒは再度プロイセンに併合された。地区の首都が置かれ西プロイセンの州となったが、それ以前から都市が持っていた自治権は大きく制限された。
[編集] 両大戦間期のダンツィヒ (1920年~1939年)
第二の自由都市ダンツィヒは、自治権のある都市国家として1920年1月10日に設立された。これは、ドイツ国境を引き直し、ポーランドに特別な経済的権利を与えた国際連盟管轄下の都市を置くとする、1919年のベルサイユ条約11節によるものである。
[編集] 領土
自由都市ダンツィヒは、ダンツィヒ(グダニスク)の都市部分とソポット(Zoppot)、ティゲンホフ( Tiegenhof)、ノイタイヒ(Neuteich)等の252の村と63の村落を含んでいた。全面積は1966平方kmであり、領土はナポレオン時代の同名の州の約2倍の大きさである。
[編集] 人口
自由都市は35万7千人の人口がいた(1919年)、そのほとんど(90%)がドイツ語を話し、残りの人々の大半が、カシューブ語とポーランド語を話した。
ベルサイユ条約は、ダンツィヒとそれを囲んでいる村をドイツから切り離したが、新しく形成された州は、在住者に基づく公民権を持つ必要があった。ドイツ住民は自由都市の形成によりドイツの国籍を失ったが、州の成立の最初の2年間はドイツ国籍を再取得する権利を与えられた。しかし、そうした場合、ダンツィヒの外のドイツの領域に住む必要があった。
言語 | 総数 | ドイツ語 | ドイツ語 と ポーランド語 | ポーランド語 カシューブ語 マズルク語 | ロシア語 ウクライナ語 | ヘブライ語 ユダヤ語 | 分類不能 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
ダンツィヒ | 335,921 | 327,827 | 1,108 | 6,788 | 99 | 22 | 77 |
ダンツィヒ以外 | 30,809 | 20,666 | 521 | 5,239 | 2,529 | 580 | 1,274 |
総数 | 366,730 | 348,493 | 1,629 | 12,027 | 2,628 | 602 | 1,351 |
比率 | 100.00% | 95.03% | 0.44% | 3.28% | 0.72% | 0.16% | 0.37% |
[編集] ポーランド人の権利
自由都市という言葉は、ポーランドから見て海外にあることを示しており、ポーランドと関税同盟に加入していた。ポーランドへ接続されている自由都市の鉄道線はポーランドにより管理されていた。同様に、町の港である、ヴェステルプラッテ(Westerplatte、以前の都市の海岸地域)、そこには分離された軍の事務所があり、ポーランドに与えられていた。同様に町には2つの郵便局が存在した。1つは都市の郵便局で、もう1つはポーランドのものであった。
[編集] 政治
1933年5月、ナチス党は、都市の選挙で勝利した。しかし、彼らは57%を選挙で得ただけで、ダンツィヒ自由都市の組織を変更するには国際連盟によって要求された2/3には不足していた。政府は反ユダヤ、反カトリックの法を導入した。後者は主に、わずかなポーランド人とカシューブ語を話す住民に対して厳しいものであった。都市はポーランド内のドイツ人の未青年に、自衛団(Selbstschutz)の指揮の中核となった、ドイツ青年党(Jungdeutsche Partei)やドイツ連合( Deutsche Vereinigung )の様な組織に採用することにより、訓練拠点を提供した。
1939年、ポーランドとドイツの緊張は頂点を迎えた、自由都市のナチス党政府は、ダンツィヒ工科大学からポーランド人の生徒をポーランドに全て追い出すことを含め、ダンツィヒのポーランド人の迫害を行った。
[編集] 第二次世界大戦と戦後
ナチス政府は、ポーランドへのドイツ侵攻の数日後、1939年9月2日にドイツへの再編入の投票を行った。都市の政体の存在が怪しい期間であったが、それでも州は正式にドイツに併合され、新たなダンツィヒ・西プロシア帝国大管区を作りだした。都市のポーランド軍は市民の服装に変装し、ポーランドの郵便局で抵抗し、7日までヴェステルプラッテを要塞化して抵抗した。郵便局の防衛をしていたもの(ズボンから軍人と認識できた)は、降伏した。
都市の90%は第二次世界大戦の終わりには廃墟となった。1945年3月30日都市は、赤軍により解放された。戦前にいた人口の約90%は死亡したか、1945年までに逃げ出たと考えられている。都市の多数の住民は避難を支援する船、ヴィルヘルム・グストロフの沈没には嘆き悲しんだ。それには、千人の兵士と水兵を含む1万人の避難民が乗っていた。
連合国は都市がポーランドの一部になると言うヤルタ会談とポツダム宣言に同意していた、
1950年までに、自由都市の約28万5千人に上る以前の住民が連合国支配下のドイツに移住した。ダンツィヒの約10万人の命が戦争中と戦争の直後に無くなった[要出典]。
[編集] 外部リンク
- ダンツィヒ(Danzig)
- 1309年までのグダニスク(Gdansk until 1309)
- 1309年~1454年のチュートン人統治下のダンツィヒ (Danzig under the Teutonic Order, 1309-1454)
- 1454年~1522年のポーランド保護下のダンツィヒ(Danzig under Polish Protection, 1454-1522)
- 1522年~1557年のダンツィヒの宗教改革(Reformation in Danzig, 1522-1557)
- 1557年~1660年のダンツィヒ(Danzig, 1557-1660)
- 1660年~1793年のダンツィヒ(Danzig, 1660-1793)
- 1793年~1807年のダンツィヒ(Danzig 1793-1807)
- 1807年~1812年のフランス管理下のダンツィヒ(Under French Administration, 1807-1813)
- 1813年~1870年のプロシア管理下のダンツィヒ(Under Prussian Administration, 1813-1870)
- 1870年~1919年のドイツ帝国の一部(Part of the German Empire, 1870-1919)
- 1920年~1939年の自由都市ダンツィヒ(Free City of Danzig, 1920-1939)
- 1946年からのグダニスク(Gdansk since 1946)
- グダニスクの歴史(Gdańsk history)
- In 1997年グダニスクの1000年記念式典(1997 Gdansk celebrated his thousand anniversary)
- 歴史と錯覚(history & hallucination)
- グダニスク旅行ガイド(Gdansk Travel Guide)
- ポーランド語のナチスとダンツィヒに関しての記事(Polish-language article about the Nazis and Danzig)
- ダンツィヒの千年(Tausend Jahre Danzig)
[編集] 関連項目
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | ドイツの歴史 | ポーランドの歴史 | 保護国 | ナポレオン戦争 | フランス革命期の衛星共和国