ニコラウス・コペルニクス
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ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名:Nicolaus Copernicus, ポーランド語名:ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik, 1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、宇宙が太陽を中心として回転している、と唱えた天文学者である。さらに、教会では律修司祭(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。彼がポーランド人かドイツ人かは論争の的である(コペルニクスの国籍論争)。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な再発見とされる。また、この発見はその後の多くの人に影響を及ぼした。
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[編集] 人物伝
コペルニクスは、1473年にトルンで生まれた。トルンは1772年のポーランド分割によってプロイセン王国領となり、現在はポーランドの一部に復帰している。民族的にはドイツ人だったといわれる。ただ、当時は民族よりも都市 (Thornisch) や国籍 (Polnisch) が重要視される時代であったとも言われる。10歳の時、裕福な、銅を売る商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラ・ヴァッツェンローデ (Barbara Watzenrode) は既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデ (Lucas Watzenrode) が父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた。
ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後にヴァルミア Warmia の領主司教となった。コペルニクスの兄弟アンドレーアス (Andreas) はフラウエンブルク Frauenburg(フロンボルク)のカノンとなり、妹バルバラ (Barbara) はベネディクト修道院の修道女となった。他の妹カタリーナ (Katharina) は市の評議委員だったバルテル・ゲルトナー (Barthel Gertner) と結婚した。
1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、はじめて天文学に触れた。化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。4年と少しの間トルンにいたあと、イタリアのボローニャ大学で法律(ローマ法)について学んだ。教育に援助をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでいたが、カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラ (Domenico Maria Novara da Ferrara) と出会い、その弟子となった。ただしコペルニクスは地球が完全な球体であると最後まで信じていた。その点でコペルニクスの論は誤りであった。(地球は自転の関係でわずかにゆがんでいる)
コペルニクスはポーランドのフロムボルク大聖堂に埋葬されたとみられていたが、遺骨は確認されていなかった。シチェチン大などのチームが2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を見つけた。
[編集] 「天球の回転について」とローマ教皇庁
1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書「天球の回転について」は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、聖書に反するとされたためである。ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。
[編集] 主な業績
- 主著「天体の回転について」で、地動説を唱え、その説を元にはじめて惑星の軌道計算を行った。
- 同書で、1年の長さを365.2425日と算出した。この数値はグレゴリオ暦への改暦の際に使用された。
- 経済学のグレシャムの法則を発見した。